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 『半島一奇抄』 青空文庫

「思わず畜生! と言ったが夢中で遁《に》げました。水車のあたりは、何にもありません、流《ながれ》がせんせんと響くばかり静まり返ったものです。ですが――お谷さん――もう分ったでしょう。欄干に凭《もた》れて東海道を覗いた三島宿の代表者。……これが生得《うまれつき》絵を見ても毛穴が立つほど鼠が嫌《きらい》なんだと言います。ここにおいて、居士が、騎士《ナイト》に鬢髪《びんぱつ》を染めた次第です。宿《しゅく》のその二階家の前は、一杯の人だかりで……欄干の二階の雨戸も、軒の大戸も、ぴったりと閉まっていました。口々に雑談をするのを聞くと、お谷さんが、朝化粧の上に、七つ道具で今しがた、湯へ行こうと、門の小橋を跨《また》ぎかけて、あッと言った、い鼠! と、あ、と声を内へ引いて遁込んで、けたたましい足音で、階子壇《はしごだん》を駆上がると、あれえあれえと二階を飛廻って欄干へ出た。い鼠がそこまで追廻したものらしい。キャッとそこで悲鳴を立てると、女は、宙へ、飛上った。粂《くめ》の仙人を倒《さかさま》だ、その白さったら、と消防夫《しごとし》らしい若い奴は怪しからん事を。――そこへ、両手で空《くう》を掴《つか》んで煙を掻分《かきわ》けるように、火事じゃ、と駆《かけ》つけた居士が、(やあ、お谷、軒をそれ火が嘗《な》めるわ、ええ何をしとる)と太鼓ぬけに上って、二階へ出て、縁に倒れたのを、――その時やっと女中も手伝って、抱込んだと言います。これじゃ戸をしめずにはおられますまい。」

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