鏡花抄――以下の抜書きは鏡花抄がそのまま鏡花頌となってくれればという怠惰な願望によるささやかな試みです。配列は順不同、制作年にもとくに配慮しておりません。



『化鳥』

 人に踏まれたり、蹴られたり、後足で砂をかけられたり、苛められて責(さいな)まれて、煮湯を飲まされて、砂を浴せられて、鞭うたれて、朝から晩まで泣通しで、咽喉がかれて、血を吐いて、消えてしまいそうになってる処を、人に高見で見物されて、おもしろがられて、笑われて、慰(なぐさみ)にされて、嬉しがられて、眼が血走って、髪が動いて、唇が破れた処で、口惜(くや)しい、口惜しい、口惜しい、口惜しい、畜生め、獣(けだもの)めと終始そう思って、五年も八年も経たなければ、ほんとうに分ることではない、覚えられることではないんだそうで、お亡(なくな)んなすった、父様とこの母様とが聞いても身震いするような、そういう酷いめに、苦しい、痛い、苦しい、辛い、惨酷なめに逢って、そうしてようようお分りになったのを、すっかり私に教えて下すったので、(…)それをば覚えて分ってから、何でも、鳥だの、獣だの、草だの、木だの、虫だの、蕈だのに人が見えるのだから、こんなおもしろい、結構なことはない。



『貝の穴に河童の居る事』

「……いま、すぐ、玄関へ出ますわ、ごらんなさいまし。」
 真暗な杉に籠って、長い耳の左右に動くのを、黒髪で捌いた、女顔の木菟の、紅い嘴で笑うのが、見えるようで凄まじい。その顔が月に化けたのではない。ごらんなさいましという言葉が道をつけて、隧道を覗かす状(さま)に、遥にその真正面へ、ぱっと電燈の光のやや薄赤い、桂井館の大式台が顕れた。



『ピストルの使い方』

 「苦労性ね、そんな星かしら。」
 「きみの星は! 年は?」
 「年は狐……星は狼。……」



『春昼後刻』

 渚の砂は、崩しても、積もる、くぼめば、たまる、音もせぬ。ただ美しい骨が出る。貝の色は、日の紅、渚の雪、浪の緑。



『山海評判記』

 「長太居るか。」
 「居る。……」
 うっかり応じた。
 「………………」
 「居るは何じゃ」
 「七年さきの夫の仇」
 ほほほ、と桃色の笑いが、障子を染めたようであった。……



『日本橋』(戯曲)

 お孝 「時々夢の覚めますのが、今日は死際の脈が打つように激しく病がさしひきして、火の粉が花に、花が雪に、雪が火の粉に見えました。知ってて殺したんです。もうそれに、此の方の(葛木をじっと見入りつゝ)お顔を見ました上じゃ、何時までも正気です。」



『海神別荘』(戯曲)

 美女 「一歩(ひとあし)に花が降り、二歩(ふたあし)に微妙の馨、いま三あしめに、ひとりでに、楽しい音楽の聞こえます。此処は極楽でございますか。」
 公子 「はゝゝ、そんな処と一所にされて堪るものか。おい、女の行く極楽に男は居らんぞ。男の行く極楽に女は居ない。」



『光籃』

 「ほゝゝ、可恐(こわ)いの?」
 娘は静かに、其の壁に向って立つと、指をしなやかに簪を取った。照らす光明に正に視る、簪は小さな斧であった。
 斧を取って、唯一面の光を、端から、丁と打ち、丁と削り、ことことことことと敲くと、その削りかけは、はらはらと、光る柳の葉、輝く桂の実にこぼれて、畳にしき、土間に散り、はた且うつくしき工人の腰にまとい、肩に乱れた。と見る見る風に従って、皆消えつつ、やがて、一輪、寸毫を違えざる十七日の月は、壁の面に掛ったのである。



『眉かくしの霊』

 そのまま熟と覗いていると、薄黒く、ごそごそと雪を踏んで行く、伊作の袖の傍を、ふわりと巴の提灯が点いて行く。おお今、窓下では提灯を持ってはいなかったようだ。――それに、もうやがて、庭を横ぎって、濡縁か、戸口に入りそうだ、と思うまで距った。遠いまで小さく見える、としばらくして、ふとあとへ戻るような、やや大きくなって、あの土間廊下の外の、萱屋根のつま下をすれずれに、段々此方へ引返す、引返すのが、気のせいだか、いつの間にか、中へ入って、土間の暗がりを点れて来る。……橋がかり、一方が洗面所、突当たりが湯殿……ハテナとぎょっとするまで気がついたのは、その点れて来る提灯を、座敷へ振り返らずに、逆に窓から庭の方に乗り出しつつ見ている事であった。



『薄紅梅』

 ここに不思議な事は、結びも、留めもしない、朱塗の梅の杯が狂気舞に跳ねても飛んでも、辷らず、転らず、頭から落ちようとしないので。……ふと心附いて、蟇のごとく跼んで、手もて取って引く、女の黒髪が一筋、糸底を巻いて、耳から額へ細りと、頬にさえ掛っている。



『陽炎座』

 例の音は地の底から、草の蒸さるるごとく、色に出て萌えて留まらぬ。
 「狸囃子と云うんだよ、昔から本所の名物さ。」
 「あら、嘘ばっかり。」
 ちょうどそこに、美しい女と、その若紳士が居合わせて、こう言(ことば)を交わしたのを松崎は聞取った。
 さては空耳ではないらしい。



『冠弥左衛門』

 にわかにがらりと相好崩して、地蔵の眉毛、文殊の眼、虫も殺さぬ柔和の面相、背丈もずっと低まりて、平然としたる顔を見れば、ややこれ冠弥左衛門!
 踵を返して海岸通を、急ぎ足に……
     すた    すた    すた
   *   *   *  (つき落ちて星ばかり、異(おつ)だね。)


 佐藤和雄(蟻) / 泉鏡花を読む