泉鏡花自筆年譜





 明治六年十一月四日、金沢市下新町二十三番地に生る。名は鏡太郎。父は清次、政光とて、金属の彫工なり。母は鈴、江戸下谷の出生、葛野流の鼓の家、中田氏の女(じょ)にして、能楽師松本金太郎の小妹。金太郎は中田の家を出でて、松本の養子となれるなり。

 明治九年四月、年四つの時、父母に伴はれ、土地の向山に遊び、はじめて城の天守を望み、殆ど町の全景を覧る。山中の蕎麦屋にて、もり三杯を服し、往復を歩きて、健脚健啖を、しばしば一つ話にさる。健啖は知らず、その後五里以上の道を歩行し得たる覚えなし、嘲笑すべき男の足弱なり。

 明治十三年四月、町より浅野川を隔てたる、東馬場、養成小学校に入学。これより先、母に草双紙の絵解を、町内のうつくしき娘たちに、口碑、伝説を聞くこと多し。

 明治十六年十二月母、年二十九にして。……

 明治十七年六月、父にともなはれて、石川郡松任、成の摩耶夫人に詣づ。径の流れに合歓の花咲き、池に杜若紫なり。なき母を思ひ慕ふ念いよいよ深し。学期より金沢高等小学校に入学。後一年ならずして、北陸英和学校に転ず、西洋人によって経営されたるミッションスクールなり。ウィルソン第一読本よりはじめて、パレイ万国史にいたる。

 明治二十年五月、英和学校をひき、専門学校、(後の第四高等学校)入学準備中、町内のわんぱく等、あひともに、やあやあなどと武者修行の真似をなし、遊戯中、大怪我をなす。ために素志を飜して、英数学の某私塾に通ふ。英語の教授を手伝ふ。

 明治二十二年四月、友人の下宿にて、はじめて紅葉先生の、「いろ懺悔」を読む。庭に桃桜咲き、隣りに機の梭の音、鼓の調子に似て聞えたり。六月富山に旅行し、友人の許にあり。国文英語の補修の座を開きしが、いまだ三月ならずして帰郷す。あまたの小説を耽読せり。大抵、貸本。見料は辰口鉱泉に住ひつつ、母なきわれをいとをしみし、叔母の小遣(こづかい)と、其の娘の小分の化粧料なり。

 明治二十三年十一月二十八日、此の日発程。陸路越前を経て、敦賀より汽車にて上京。予て崇慕渇仰したる紅葉先生たらむとのみ志ししが、ながく面接の機なく、荏苒一箇年間。巷に迷ひ、下宿を追はれ、半歳に居を移すこと十三四次。盛夏鎌倉にさすらひし事あり、彼処も今は都となりぬ。或時は麻布今井町の寺院より、浅草田原町の裏長屋に移りし事あり。

 明治二十四年十月、牛込横寺町四十七番地に、はじめて紅葉先生を訪ぬ。志を述ぶるや、ただちに門下たることを許され、且つ翌日より玄関番を承る。十九日午前と覚ゆ。これより衣食煙草ともに、偏に先生の恩恵による。――新婚の令夫人、島田髷にておはせしかば、両三日、妹ぎみと思ひまゐらせき。

 明治二十五年六月、先生の「夏小袖」春陽堂より匿名にて出づ。作者の名を言ひあてたる読者に懸賞の催しなり。堅く秘して、店員にも、活版所にも、先生の真蹟を知らざらしめむがために、玄関番全稿を書写す。指呼するもの十に八九は中(あた)らず。其の名あらはるるや、「やったな、覚えて居(を)れ。」と、饗庭翁より葉書の舞込むに到る。先生リッチモンドを斜にふかして、莞爾として、「これを知るもの全国に三人」と。即ち先生と、和田鷹城と、玄関番なり。内弟子信用を受く。十二月、金沢市大火、実家類焼の厄に逢ふ。帰郷。年内大雪の中を上京す。汽車いまだ敦賀以北を通ぜざりき。

 明治二十六年五月、京都日出新聞に「冠弥左衛門」を連載す。うけざる故を以て、新聞当事者より、先生に対し、其の中止を要求して止まず、状信二十通に余る。然れども、少年の弟子の出端(でばな)を折られむをあはれみて、侠気励烈、折衝を重ねて、其の(完)を得せしめらる。此のよし後に知る処、偏(ひとえ)に先生の大慈なり。翌年いづれより転売せしや、加賀、北陸新報に、おなじ挿画とともに掲げて、社は喝采を得たりと聞く。そのいはれを知らず。此の年、「活人形」を探偵文庫に、ならびに「金時計」を少年文学に。此の両冊は、生前の父に見することを得たり。八月、重き脚気を病み、療養のため帰郷。十月京都に赴く。同地遊覧中なりし、先生に汽車賃の補助をうけて横寺町に帰らむがためなりき。時小春にして、途中大聖寺より大(おおい)に雪降る。年末この紀行に潤色して、「他人の妻」一篇を作る。年を経て発表せし、「怪語」は其の一齣なり。余は散佚せしのみ。

 明治二十七年一月九日、父を喪ふ。帰郷、生活の計(はかりごと)を知らず。ただ祖母の激励の故に、祖母と幼弟を残して上京す。十月、「予備兵」つづいて、「義血侠血」読売新聞に出づ。ともに帰郷中、翌日の米の計なきに切(せま)れる試作。其の新聞に掲げられたるは、先生の大斧鉞のたまものなり。

 明治二十八年二月、家計を支ふる必要上、博文館輯する所の日用百科書の編纂に従ふため、小石川戸崎町大橋乙羽氏の宅に移る。紅葉先生、弟子の行を壮(さかん)ならしむるため、西洋料理を馳走さる。いまだ酒なし。ホークとナイフの持ち方を教へられしも此の時なり。四月、「夜行巡査」を文芸倶楽部に発表。青年文学誌上、田岡嶺雲の讃をうく。つづいて「外科室」深夜にして成りて、文芸倶楽部巻頭に盛装して出づ。六月、年七十を越えたる祖母を見むがために帰郷し、八九月とも祖母の慈愛に逗留。北国新聞に「黒猫」を草す。十月帰京。また脚気に悩む。

 明治二十九年一月、旧冬より病を推して、起稿したる「海城発電」「琵琶伝」「化銀杏」三編、一は太陽に、一は国民の友に、一は青年小説に、出づ。世評皆喧し、褒貶相半ばす。否、寧ろ罵評の包囲なりし。五月、小石川大塚町に居を卜(ぼく)し、祖母を迎ふ。年七十七。東京に住むを喜びて、越前国春日野峠を徒歩して上りたり。母の感化による。「龍潭譚」小説六佳選に出づ。めざまし草の批評に鑑み、「九ツ谺」と改めむとせしが、いま同じ題を存す。「一之巻」「二之巻」を、月をついで文芸倶楽部に連載し初む。十月より読売新聞に「照葉狂言」。――此の頃笹川臨風、気軽に大塚の長屋に訪(と)ひ来たり、ともに十二社(そう)に遊び、酒のまずに柿をかじる。

 明治三十年四月、宙外、後藤寅之助氏、新著月刊を起したる、其の首巻に「化鳥」を書く。此の頃より酒杯を手にし、人の遊(あそび)に伴ふ。然れども「笈ずる草紙」は、推して端坐精進の作と言はむ。

 明治三十一年二月、「辰巳巷談」を新小説に寄す。新文芸に載せたる「親子そば三人客」は、本郷壱岐殿坂の蕎麦屋に時雨の夜の実景なり。

 明治三十二年一月、伊藤すずと相識る、十二月、「湯島詣」新作にして春陽堂より、単行、出版。

 明治三十三年二月、「高野聖」、新小説に出づ。

 明治三十四年十一月、「袖屏風」新小説に。

 明治三十五年一月、「女仙前記」新小説に出づ。「祝盃」は一度に各府県の新聞に載せたるもの。二月、名古屋に行く。七月の末より九月上旬まで、逗子桜山街道の一軒家にあり。胃腸を病めるなり。すず台所を手伝ふ。十月「起誓文」新小説に出づ。

 明治三十六年三月、牛込神楽町に引越す。五月、すずと同棲。その此(これ)を得たるは、竹馬の郷友、吉田賢龍氏の厚誼なり。十月三十日、紅葉先生逝去さる。十一月より、国民新聞に「風流線」を載せはじむ。これより前(さき)、「薬草取」は、換菓編の一篇にして、同葉、皆ともに先生の病床に呈したるなり。先生、筆を枕に取りて、尚ほ章行の句読を正したまひたり。十月、「白羽箭」文芸倶楽部に出づ。月光、草に深き、古城を歌へるなり。

 明治三十七年三月、「紅雪録」四月、「続紅雪録」――雪中の赤帽は、名古屋停車場に、これを見たるなり。

 明治三十八年二月、「銀短冊」文芸倶楽部、「瓔珞品」新小説。

 明治三十九年二月、祖母を喪ふ。年八十七。七月、ますます健康を害(そこな)ひ、静養のため、逗子、田越に借家。一夏の仮すまひ、やがて四年越の長きに亘れり。殆ど、粥と、じゃが薯を食するのみ。十一月、「春昼」新小説に出づ。うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき。雨は屋(おく)を漏り、梟軒に鳴き、風は欅の枝を折りて、棟の柿(こけら)葺を貫き、破(やれ)衾の天井を刺さむとす。蘆の穂は霜寒き秋に散り、ささ蟹は、むれつつ畳を走りぬ。「春昼後刻」を草せり。蝶か、夢か、殆ど恍惚の間にあり。李長吉は、其の頃嗜みよみたるもの。

 明治四十年一月、「婦系図」を、やまと新聞に連載す。

 明治四十一年、新作「草迷宮」春陽堂にて単行出版。二月、帰京して麹町土手三番町に居を卜(ぼく)す。敷金の出資、店うけ人は、ともに彌次郎兵衛、臨風氏なりとす。激暑に悩む。秋たちてより土手の松に木菟の声聞えたり。

 明治四十二年十月、「白鷺」東京朝日新聞に出づ。

 明治四十三年月、「歌行燈」、此の年より「鏡花集」袖珍本の刊行はじまる。年月相続(つ)ぎて五巻とす。五月、麹町下六番町十一に。十月、「三味線堀」三田文学に出づ。頁数の少(すくな)き雑誌に、一稿百枚は、永井荷風氏の厚情による。

 明治四十四年一月、「朱日記」三田文学。十月「銀鈴集」隆文館より。――この頃は里見氏有島家にあり。長髪白皙、しばしば家人の見る処。はじめ未だ逢はず、後次第に相近づく。

 明治四十五年一月、「南地心中」四月、中央公論に「三人の盲の話」

 大正元年十一月、「印度更紗」中央公論。

 大正二年三月、「夜叉ヶ池」演芸倶楽部。十二月、「海神別荘」中央公論。ともに戯曲。おなじく「恋女房」鳳鳴社より単行す。

 大正三年九月、「日本橋」知友堀尾成章氏の千章館より。小村雪岱氏はじめて装画を試む。

 大正四年四月、「新つや物語」文芸倶楽部、六月、「夕顔」三田文学。六月、「鏡花選集」十月、「遊里集」ともに春陽堂。出版。

 大正五年十月、水上瀧太郎氏英国より帰る。此の年、初夏のはじめより、あしき病流行したるに恐(おそれ)をなし、門を出でざること、殆ど三月。瀧君帰朝の当時、久保田万太郎氏と相伴ひて訪れたるに快談し、十一月下旬、はじめて大根河岸に一酌す。此月新小説に「萩薄内証話」

 大正六年九月、「天守物語」新小説。

 大正七年六月、「鴛鴦帳」至善堂より、新作単行。前年の春、書肆より前借して、多日稿成らず。作者酒間に鬱ぐを見て、水上瀧太郎氏、我が小遣其の額に余る、金子を返せと言ふ。厚誼と意気に且つ感じて、草稿すすみぬ。

 大正八年一月、「ゆかりの女」を婦人画報に連載しはじむ。

 大正九年一月、「伯爵の釵」を、婦女界に、五月、「売色鴨南蛮」を人間に。六月の頃と覚ゆ、映画の事により、谷崎潤一郎氏と会す、芥川龍之介氏も殆ど同時なり。

 大正十年二月、水上瀧太郎氏編する処の著作細表、「蜻蛉集」の附録に出づ。訂正増補したるは、春陽堂の「全集」にあり。

 大正十一年一月、「身延の鶯」を東京日日新聞に、八月より、「りんどうとなでしこ」を女性にのせはじむ。

 大正十二年九月、大地震。火を避けて露宿二昼夜、家内皆無事。提灯のあかりをたよりに、徹宵、「露宿」「十六夜」を書く。

 大正十三年三月、「二三羽――一二三羽」女性に出づ。「七宝の柱」を新潮社上梓。五月、苦楽に、「眉かくしの霊」を寄す。

 大正一四年一月、改造社より「番町夜講」を出す。七月、春陽堂より「鏡花全集」刊行しはじむ、浜野英二氏の労少(すくな)からず。

 大正一五年一月、女性に、「戦国新茶漬」を載す。大贔屓の、上杉謙信、場に登りて、自から大(おほい)に喜ぶ。

 昭和二年二月、「多神教」――文藝春秋。

 昭和二年四月、改造に「卵塔場の天女」――七月、期に遅るること八ヶ月にして、「全集」成る。この集のために、一方ならぬ厚意に預りし、芥川龍之介氏の二十四日の通夜の書斎に、鉄瓶を掛けたるままの夏冷(つめた)き火鉢の傍に、其の月の配本第十五巻、蔽(おほひ)を払はれたりしを視て、思はず涙さしぐみぬ。八月、東京大阪日日新聞、新八景の記事のため十和田湖を観る、三角医学博士同遊。森林中に、奥入瀬川をさかのぼり、戸の口、休屋(やすみや)に宿り、秋田に行く。途中、湖風清冷、薄荷の浜に酒を煮る。

 昭和三年三月、肺炎を病む、五月癒えて、修善寺に遊ぶ。「飛剣幻なり」改造七月に載するところ。



* 〔底本は『現代日本文學全集 第一四篇 泉鏡花集』(改造社・昭和3年)を使用、旧字を新字に換えました。〕



〔補足〕

 昭和三年、各社の文学全集より鏡花集刊行さる。いはゆる円本なり。

 昭和四年五月、妻すず、目細てるをともなひ能登に遊ぶ。七月、「山海評判記」時事新報に連載。

 昭和五年九月、「木の子説法」文藝春秋に出づ。

 昭和六年九月、「貝の穴に河童の居る事」古東多万に載す。

 昭和七年一月、「菊あはせ」――文藝春秋。

 昭和八年三月、弟豊春、徳田秋声の経営になるアパートにて死去。これを機に秋声との不和解消す。

 昭和九年一月、「斧琴菊」中央公論に出づ。

 昭和十年九月、「註文帳画譜」新小説社。鏑木清方画。

 昭和十一年一月、戯曲「お忍び」中央公論に載す。九月、『泉鏡花読本』三笠書房、久保田万太郎編集。

 昭和十二年一月、「薄紅梅」東京日日新聞および大阪毎日新聞に連載。六月二十四日、帝国芸術院会員になる。十二月、「雪柳」中央公論に出づ。

 昭和十三年。この年、はじめて発表作なし。十一月、血痰。体調悪し。

 昭和十四年四月、佐藤春夫甥と谷崎潤一郎長女の婚礼を媒酌す。七月、「縷紅新草」中央公論。七月下旬、病床につく。九月七日、午後二時四十五分永眠。癌性肺腫瘍なり。十日、芝青松寺にて葬儀。戒名は「幽幻院鏡花日彩居士」、佐藤春夫撰す。雑司ヶ谷墓地に埋葬。



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