『春晝』                             泉 鏡花        一 「お爺さん、お爺さん。」 「はあ、私けえ。」  と、一言で直ぐ應じたのも、四邊が靜かで他には誰も居なかつた所爲であらう。 然うでないと、其の皺だらけな額に、顱卷を緩くしたのに、ほか/\と春の日がさ して、とろりと醉つたやうな顏色で、長閑に鍬を使ふ樣子が――あの又其の下の柔 な土に、しつとりと汗ばみさうな、散りこぼれたら紅の夕陽の中に、ひら/\と入 つて行きさうな――暖い桃の花を、燃え立つばかり搖ぶつて頻に囀つて居る鳥の音 こそ、何か話をするやうに聞かうけれども、人の聲を耳にして、それが自分を呼ぶ のだとは、急に心付きさうもない、恍惚とした形であつた。  此方も此方で、恁く立處に返答されると思つたら、聲を懸けるのぢやなかつたか も知れぬ。  何爲なら、扨て更めて言ふことが些と取り留めのない次第なので。本來なら此の 散策子が、其のぶら/\歩行の手すさびに、近頃買求めた安直な杖を、眞直に路に 立てゝ、鎌倉の方へ倒れたら爺を呼ばう、逗子の方へ寢たら默つて置かう、とそれ でも事は濟んだのである。  多分は聞えまい、聞えなければ、其まゝ通り過ぎる分。餘計な世話だけれども、 默切も些と氣になつた處。響の應ずるが如き其の、(はあ、私けえ)には、聊か不 意を打たれた仕誼。 「あゝ、お爺さん。」  と低い四目垣へ一足寄ると、ゆつくりと腰をのして、脊後へよいとこさと反るや うに伸びた。親仁との間は、隔てる草も別になかつた。三筋ばかり耕された土が、 勢込んで、むく/\と涌き立つやうな快活な香を籠めて、然も寂寞とあるのみで。 勿論、根を拔かれた、肥料になる、青々と粉を吹いたそら豆の芽生に交つて、紫雲 英もちらほら見えたけれども。  鳥打に手をかけて、 「つかんことを聞くがね、お前さんは何ぢやないかい、此の、其處の角屋敷の内の 人ぢやないかい。」  親仁はのそりと向直つて、皺だらけの顏に一杯の日當り、桃の花に影がさした其 の色に對して、打向ふ其方の屋根の甍は、白晝青麥をDる空に高い。 「あの家のかね。」 「其の二階のさ。」 「いんえ、違ひます。」  と、云ふことは素氣ないが、話を振切るつもりではなささうで、肩を一ツ搖りな がら、鍬の柄を返して地について此方の顏を見た。 「然うかい、いや、お邪魔をしたね、」  これを機に、別れようとすると、片手で顱卷をBり取つて、 「どうしまして、邪魔も何もござりましねえ。はい、お前樣、何か尋ねごとさつし やるかね。彼處の家は表門さ閉つて居りませども、貸家ではねえが……」  其の手拭を、裾と一緒に、下からつまみ上げるやうに帶へ挾んで、指を腰の兩提 げに突込んだ。これでは直ぐにも通られない。 「何ね、詰らん事さ。」 「はいゝ?」 「お爺さんが彼家の人なら然う言つて行かうと思つて、別に貸屋を搜してゐるわけ ではないのだよ。奧の方で少い婦人の聲がしたもの、空家でないのは分つてるが、」 「然うかね、女中衆も二人ばツか居るだから、」 「其の女中衆に就いてさ。私がね、今彼處の横手を此の路へかゝつて來ると、溝の 石垣の處を、ずる/\つと這つてね、一匹居たのさ――長いのが。」        二  怪訝な眉を臆面なく日に這はせて、親仁、煙草入をふら/\。 「へい、」 「餘り好物な方ぢやないからね、實は、」  と言つて、笑ひながら、 「其の癖恐いもの見たさに立留まつて見て居ると、何ぢやないか、やがて半分ばか り垣根へ入つて、尾を水の中へばたりと落して、鎌首を、あの羽目板へ入れたらう ぢやないか。羽目の中は、見た處湯殿らしい。それとも臺所かも知れないが、何し ろ、内にや少い女たちの聲がするから、どんな事で吃驚しまいものでもない、と思 ひます。  あれツ切、座敷へなり、納戸へなりのたくり込めば、一も二もありやしない。そ れまでと云ふもんだけれど、何處か板の間にとぐろでも卷いて居る處へ、うつかり 出會したら難儀だらう。  どの道餘計なことだけれど、お前さんをみかけたから、つい其處だし、彼處の内 の人だつたら、一寸心づけて行かうと思つてさ。何ね、此處等ぢや、蛇なんか何で もないのかも知れないけれど、」 「はあ、青大將かね。」  と云ひながら、大きな口をあけて、奧底もなく長閑な日の舌に染むかと笑ひかけ た。 「何でもなかあねえだよ。彼處さ東京の人だからね。此間も一件もので大騷ぎをし たでがす。行つて見て進ぜますべい。疾うに、はい、何處かずらかつたも知んねえ けれど、臺所の衆とは心安うするでがすから、」 「ぢやあ、然うして上げなさい。しかし心ない邪魔をしたね。」 「なあに、お前樣、どうせ日は永えでがす。はあ、お靜かにござらつせえまし。」  恁うして人間同士がお靜かに別れた頃には、一件はソレ龍の如きもの歟、凡慮の 及ぶ處でない。  散策子は踵を廻らして、それから、きり/\はたり、きり/\はたりと、鶏が羽 うつやうな梭の音を慕ふ如く、向う側の垣根に添うて、二本の桃の下を通つて、三 軒の田舎屋の前を過ぎる間に、十八九のと、三十ばかりなのと、機を織る婦人の姿 を二人見た。  其の少い方は、納戸の破障子を半開きにして、姉さん冠の横顏を見た時、腕白く 梭を投げた。其の年取つた方は、前庭の乾いた土に筵を敷いて、脊むきに機臺に腰 かけたが、トンと足をあげると、ゆるりキリ/\と鳴つたのである。  唯それだけを見て過ぎた。女今川の口繪でなければ、近頃は餘り見掛けない。可 懷しい姿、些と立佇つてといふ氣もしたけれども、小兒でも居ればだに、どの家も 皆野面へ出たか、人氣は此の外になかつたから、人馴れぬ女だち物恥をしよう、い や、此の男の俤では、物怖、物驚をしようも知れぬ。此の路を後へ取つて返して、 今蛇に逢つたといふ、其二階家の角を曲ると、左の方に脊の高い麥畠が、なぞへに 低くなつて、一面に颯と擴がる、淺緑に美しい白波が薄りと靡く渚のあたり、雲も ない空に歴々と眺めらるゝ、西洋館さへ、青異人、赤異人と呼んで色を鬼のやうに 稱ふるくらゐ、こんな風の男は髯がなくても(帽子被り)と言ふと聞く。  尤も一方は、そんな風に――よし、村のものの目からは青鬼赤鬼でも――蝶の飛 ぶのも帆艇の帆かと見ゆるばかり、海水浴に開けて居るが、右の方は昔ながらの山 の形、眞黒に、大鷲の翼打襲ねたる趣して、左右から苗代田に取詰むる峰の褄、一 重は一重毎に迫つて次第に狹く、奧の方暗く行詰つたあたり、打つけなりの茅屋の 窓は、山が開いた眼に似て、恰も大なる蟇の、明け行く海から掻窘んで、谷間に潛 む風情である。        三  されば瓦を焚く竈の、屋の棟よりも高いのがあり、主の知れぬ宮もあり、無縁に なつた墓地もあり、頻に落ちる椿もあり、田には大な鰌もある。  あの、西南一帶の海の潮が、浮世の波に白帆を乘せて、此しばらくの間に九十九 折ある山の峽を、一ツづゝ灣にして、奧まで迎ひに來ぬ内は、いつまでも村人は、 むかう向になつて、ちらほらと畑打つて居るであらう。  丁どいまの曲角の二階家あたりに、屋根の七八ツ重つたのが、此の村の中心で、 それから峽の方へ飛々にまばらになり、海手と二三町が間人家が途絶えて、却つて 折曲つた此の小路の兩側へ、又飛々に七八軒續いて、それが一部落になつて居る。  梭を投げた娘の目も、山の方へ瞳が通ひ、足蹈みをした女房の胸にも、海の波は 映らぬらしい。  通りすがりに考へつゝ、立離れた。面を壓して菜種の花。眩い日影を輝くばかり。 左手の崕の緑なのも、向うの山の青いのも、偏に此の眞黄色の、僅に限あるを語る に過ぎず。足許の細流や、一段颯と簾を落して流るゝさへ、なか/\に花の色を薄 くはせぬ。  あゝ目覺ましいと思ふ目に、ちらりと見たのみ、呉織文織は、恰も一枚の白紙に、 朦朧と描いた二個の其の姿を殘して餘白を眞黄色に塗つたやう。二人の衣服にも、 手拭にも、襷にも、前垂にも、織つて居た其の機の色にも、聊も此の色のなかつた だけ、一入鮮麗に明瞭に、腦中に描き出された。  勿論、描いた人物を判然と浮出させようとして、此の彩色で地を塗潰すのは、畫 の手段に取つて、是か、非か、功か、拙か、それは菜の花の預り知る處でない。  うつとりするまで、眼前眞黄色な中に、機織の姿の美しく宿つた時、若い婦女の 衝と投げた梭の尖から、ひらりと燃えて、いま一人の足下を閃いて、輪になつて一 ツ刎ねた、朱に金色を帶びた一條の線があつて、赫燿として眼を射て、流のふちな る草に飛んだが、火の消ゆるが如くやがて失せた。  赤棟蛇が、菜種の中を輝いて通つたのである。  悚然として、向直ると、突當りが、樹の枝から梢の葉へ搦んだやうな石段で、上 に、茅ぶきの堂の屋根が、目近な一朶の雲かと見える。棟に咲いた紫羅傘の花の紫 も手に取るばかり、峰のみどりの黒髮にさしかざされた裝の、其が久能谷の觀音堂。  我が散策子は、其處を志して來たのである。爾時、これから參らうとする、前途 の石段の眞下の處へ、殆ど路の幅一杯に、兩側から押被さつた雜樹の中から、眞向 にぬつと、大な馬の顏がむく/\と涌いて出た。  唯見る、それさへ不意な上、胴體は唯一ツでない。鬣に鬣が繋がつて、胴に胴が 重なつて、凡そ五六間があひだ獸の脊である。  咄嗟の間、散策子は杖をついて立窘んだ。  曲角の青大將と、此傍なる菜の花の中の赤棟蛇と、向うの馬の面とへ線を引くと、 細長い三角形の只中へ、封じ籠められた形になる。  奇怪なる地妖でないか。  しかし、若惡獸圍繞、利牙爪可怖も、E蛇及蝮蝎、氣毒煙火燃も、薩陀彼處にま しますぞや。しばらくして。……        四  のんきな馬士めが、此處に人のあるを見て、はじめて、のつそり馬の鼻頭に顯れ た、眞正面から前後三頭一列に並んで、たら/\下りをゆた/\と來るのであつた。 「お待遠さまでごぜえます。」 「はあ、お邪魔さまな。」 「御免なせえまし。」  と三人、一人々々聲をかけて通るうち、流のふちに爪立つまで、細くなつて躱し たが、尚大まる皮の風呂敷に、目を包まれる心地であつた。  路は一際細くなつたが、却つて柔かに草を蹈んで、きり/\はたり、きり/\は たりと、長閑な機の音に送られて、やがて仔細なく、蒼空の樹の間漏る、石段の下 に着く。  此の石段は近頃すつかり修復が出來た。(從つて、爪尖のぼりの路も、草が分れ て、一筋明らさまになつたから、もう蛇も出まい、)其時分は大破して、丁ど繕ひ にかゝらうといふ折から、馬は此の段の下に、一軒、寺といふほどでもない住職の 控家がある、其の脊戸へ石を積んで來たもので。  段を上ると、階子が搖はしまいかと危むばかり、角が缺け、石が拔け、土が崩れ、 足許も定まらず、よろけながら攀ぢ上つた。見る/\、目の下の田畠が小さくなり 遠くなるに從うて、波の色が蒼う、ひた/\と足許に近づくのは、海を抱いた恁る 山の、何處も同じ習である。  樹立ちに薄暗い石段の、石よりも堆い青苔の中に、あの螢袋といふ、薄紫の差俯 向いた桔梗科の花の早咲を見るにつけても、何となく濕つぽい氣がして、然も湯瀧 のあとを蹈むやうに熱く汗ばんだのが、颯と一風、ひや/\となつた。境内は然ま で廣くない。  尤も、御堂のうしろから、左右の廻廊へ、山の幕を引廻して、雜木の枝も墨染に、 其處とも分かず松風の聲。  渚は浪の雪を敷いて、砂に結び、巖に消える、其の都度音も聞えさう、但殘惜い までぴたりと留んだは、きりはたり機の音。  此處よりして見てあれば、織姫の二人の姿は、菜種の花の中ならず、蒼海原に描 かれて、浪に泛ぶらむ風情ぞかし。  いや、參詣をしませう。  五段の階、縁の下を、馬が駈け拔けさうに高いけれども、欄干は影も留めない。 昔は然こそと思はれた、丹塗の柱、花狹間、梁の波の紺青も、金色の龍も色さみし く、晝の月、茅を漏りて、唐戸に蝶の影さす光景、古き土佐繪の畫面に似て、然も 名工の筆意に合ひ、眩ゆからぬが奧床しう、そゞろに尊く懷しい。  格子の中は暗かつた。  戸張を垂れた御厨子の傍に、造花の白蓮の、氣高く俤立つに、頭を垂れて、引退 くこと二三尺。心靜かに四邊を見た。  合天井なる、紅々白々牡丹の花、胡粉の俤消え殘り、紅も散留つて、恰も刻んだ ものの如く、髣髴として夢に花園を仰ぐ思ひがある。  それら、花にも臺にも、丸柱は言ふまでもない。狐格子、唐戸、桁、梁、Aすも のの此處彼處、巡拜の札の貼りつけてないのは殆どない。  彫金といふのがある、魚政といふのがある、屋根安、大工鐵、左官金。東京の淺 草に、深川に。周防國、美濃、近江、加賀、能登、越前、肥後の熊本、阿波の徳島。 津々浦々の渡鳥、稻負せ鳥、閑古鳥。姿は知らず名を留めた、一切の善男子善女人。 木賃の夜寒の枕にも、雨の夜の苫船からも、夢は此の處に宿るであらう。巡禮たち が靈魂は時々此處に來て遊ばう。……をかし、一軒一枚の門札めくよ。        五  一座の靈地は、渠等のためには平等利益、樂く美しい、花園である。一度詣でた らむほどのものは、五十里、百里、三百里、筑紫の海の果からでも、思ひさへ浮ん だら、束の間に此處に來て、虚空に花降る景色を見よう。月に白衣の姿も拜まう。 熱あるものは、楊柳の露の滴を吸ふであらう。戀するものは、優柔な御手に縋りも しよう。御胸にも抱かれよう。はた迷へる人は、緑の甍、朱の玉垣、金銀の柱、朱 欄干、瑪瑙の階、花唐戸。玉樓金殿を空想して、鳳凰の舞ふ龍の宮居に、牡丹に遊 ぶ麒麟を見ながら、獅子王の座に朝日影さす、櫻の花を衾として、明月の如き眞珠 を枕に、勿體なや、御添臥を夢見るかも知れぬ。よしそれとても、大慈大悲、觀世 音は咎め給はぬ。  されば是なる彫金、魚政はじめ、此處に靈魂の通ふ證據には、いづれも巡拜の札 を見ただけで、どれもこれも、女名前のも、略々其の容貌と、風采と、從つて其の 擧動までが、朦朧として影の如く目に浮ぶではないか。  彼の新聞で披露する、諸種の義捐金や、建札の表に掲示する寄附金の署名が寫實 である時に、これは理想であると云つても可からう。  微笑みながら、一枚づゝ。  扉の方へうしろ向けに、大な賽錢箱の此方、藥研のやうな破目の入つた丸柱を視 めた時、一枚懷紙の切端に、すら/\とした女文字。     うたゝ寐に戀しき人を見てしより          夢てふものは頼みそめてき                 ――玉脇みを――  と優しく美く書いたのがあつた。 「これは御參詣で。もし、もし、」  はツと心付くと、麻の法衣の袖をかさねて、出家が一人、裾短に藁草履を穿きし めて間近に來て居た。  振向いたのを、莞爾やかに笑み迎へて、 「些と此方へ。」  賽錢箱の傍を通つて、格子戸に及腰。 「南無」とあとは口の裏で念じながら、左右へかた/\と靜に開けた。  出家は、眞直ぐに御厨子の前、かさ/\と袈裟をずらして、袂からマッチを出す と、伸上つて御蝋を點じ、額に掌を合はせたが、引返して最う一枚、彳んだ人の前 の戸を開けた。  蟲ばんだが一段高く、且つ幅の廣い、部厚な敷居の内に、縱に四疊ばかり敷かれ る。壁の透間を樹蔭はさすが、縁なしの疊は青々と新しかつた。  出家は、上に何にもない、小机の前に坐つて、火入ばかり、煙草なしに、灰のく すぼつたのを押出して、自分も一膝、此方へ進め、 「些とお休み下さい。」  また、かさ/\と袂を探つて、 「やあ、マッチは此處にもござつた、はゝは、」  と、も一ツ机の下から。 「それではお邪魔を、一寸、拜借。」  と此方は敷居越に腰をかけて、此處からも空に連なる、海の色より、より濃な霞 を吸つた。 「眞個に、結構な御堂ですな、佳い景色ぢやありませんか。」 「や、最う大破でござつて。おもりをいたす佛樣に、恁う申し上げては濟まんであ りますがな。はゝは、私力にもおいそれとは參りませんので、行屆かん勝でござい ますよ。」        六 「隨分御參詣はありますか。」  先づ差當り言ふことはこれであつた。  出家は頷くやうにして、机の前に座を斜めに整然と坐り、 「然やうでございます。御繁昌と申したいでありますが、當節は餘りござりません。 以前は、莊嚴美麗結構なものでありましたさうで。  貴下、今お通りになりましてございませう。此處からも見えます。此の山の裾へ かけまして、づツとあの菜種畠の邊、七堂伽藍建連なつて居りましたさうで。書物 にも見えますが、三浦郡の久能谷では、此の岩殿寺が、土地の草分と申しまする。  坂東第二番の巡拜所、名高い靈場でございますが、唯今ではとんと其の舊跡とで も申すやうになりました。  妙なもので、却つて遠國の衆の、參拜が多うございます。近くは上總下總、遠い 處は九州西國あたりから、聞傳へて巡禮なさるのがあります處、此方たちが、當地 へござつて、此の近邊で聞かれますると、つい知らぬものが多くて、大きに迷ふな ぞと言ふ、お話を聞くでございますよ。」 「然うしたもんです。」 「はゝゝ、如何にも、」  と言つて一寸言葉が途切れる。  出家の言は、聊か寄附金の勸化のやうに聞えたので、少し氣になつたが、煙草の 灰を落さうとして目に留まつた火入の、いぶりくすぶつた色あひ、マッチの燃さし の突込み加減。巣鴨邊に彌勒の出世を待つて居る、眞宗大學の寄宿舎に似て、餘り 世帶氣がありさうもない處は、大に胸襟を開いて然るべく、勝手に見て取つた。  其處で又清々しく一吸して、山の端の煙を吐くこと、遠見の鐵拐の如く、 「夏は嘸涼しいでせう。」 「とんと暑さ知らずでござる。御堂は申すまでもありません、下の假庵室なども至 極其の涼しいので、ほんの草葺でありますが、些と御歸りがけにお立寄り、御休息 なさいまし。木葉を燻べて澁茶でも獻じませう。  荒れたものでありますが、いや、茶釜から尻尾でも出ませうなら、又一興でござ る。はゝゝゝ、」 「お羨しい御境涯ですな。」  と客は言つた。 「どうして、貴下、然やうに悟りの開けました智識ではございません。一軒屋の一 人住居心寂しうござつてな、唯今も御參詣のお姿を、あれからお見受け申して、あ とを慕つて來ましたほどで。  時に、どちらに御逗留?」 「私? 私は直き其の停車場最寄の處に、」 「しばらく、」 「先々月あたりから、」 「いづれ、御旅館で、」 「否、一室借りまして自炊です。」 「は、は、然やうで。いや、不躾でありまするが、思召しがござつたら、假庵室御 用にお立て申しまする。  甚だ唐突でありまするが、昨年夏も、お一人な、矢張恁やうな事から、貴下がた のやうな御仁の御宿をいたしたことがありまする。  御夫婦でも宜しい。お二人ぐらゐは樂でありますから、」 「はい、難有う。」  と莞爾して、 「一寸通りがかりでは、恁ういふ處が、此方にあらうとは思はれませんね。眞個に 佳い御堂ですね、」 「折々御遊歩においで下さい。」 「勿體ない、おまゐりに來ませう。」  何心なく言つた顏を、訝しさうに打眺めた。        七  出家は膝に手を置いて、 「これは、貴下方の口から、然う云ふことを承らうとは思はんでありました。」 「何故ですか、」  と問うては見たが、豫め、其の意味を解するに難うはないのであつた。  出家も、扁くはあるが、ふつくりした頬に笑を含んで、 「何故と申すでもありませんがな……先づ當節のお若い方が……と云ふのでござる。 はゝゝゝ、近い話がな。最も然う申すほど、私が、まだ年配ではありませんけれど も、」 「分りましたとも。青年の、然も書生が、とおつしやるのでせう。  否、然ういふ御遠慮をなさるから、それだから不可ません、それだから、」  と何うしたものか、じり/\と膝を向け直して、 「段々お宗旨が寂れます。此方は何お宗旨だか知りませんが。  對手は老朽ちたものだけで、年紀の少い、今の學校生活でもしたものには、迚も 濟度はむづかしい、今さら、觀音でもあるまいと言ふやうなお考へだから不可んの です。  近頃は爺婆の方が横着で、嫁をいぢめる口叱言を、お念佛で句讀を切つたり、膚 脱で鰻の串を横銜へで題目を唱へたり、……昔からも然う云ふのもなかつたんぢや ないが、まだ/\胡散ながら、地獄極樂が、幾干か念頭にあるうちは始末がよかつ たのです。今ぢや、生悟りに皆が悟りを開いた顏で、惡くすると地獄の繪を見て、 こりや出來が可い、などと言ひ兼ねません。  貴下方が、到底對手にやなるまいと思つてお在でなさる、少い人達が、却つて祖 師に憧がれてます。何うかして、安心立命が得たいと悶えてますよ。中にはそれが ために氣が違ふものもあり、自殺するものさへあるぢやありませんか。  何でも構はない。途中で、はゝあ、之が二十世紀の人間だな、と思ふのを御覽な すつたら、男子でも女子でもですね、唐突に南無阿彌陀佛と聲をかけてお試しなさ い。すぐに氣絶するものがあるかも知れず、立處に天窓を剃て御弟子になりたいと 言はうも知れず、ハタと手を拍つて悟るのもありませう。或はそれが基で死にたく なるものもあるかも知れません。  實際、串戲ではない。其のくらゐなんですもの。佛教は是から法燈の輝く時です。 それだのに、何故か、貴下がたが因循して引込思案でいらつしやる。」  頻に耳を傾けたが、 「然やう、如何にも、はあ、然やう。いや、私どもとても、堅く申せば思想界は大 維新の際で、中には神を見た、まのあたり佛に接した、或は自から救世主であるな どと言ふ、當時の熊本の神風連の如き、一揆の起りましたやうな事も、ちらほら聞 傳へては居りますが、いづれに致せ、高尚な御議論、御研究の方でござつて、此方 人等づれ出家がお守りをする、偶像なぞは……其の、」  と言ひかけて、密と御厨子の方を見た。 「作がよければ、美術品、彫刻物として御覽なさらうと言ふ世間。  或は今後、佛教は盛にならうも知れませんが、兎も角、偶像の方となりますると ……其の如何なものでござらうかと……同一信仰にいたしてからが、御本尊に對し、 禮拜と申す方は、此の前どうあらうかと存じまする。はゝゝ、其處でございますか ら、自然、貴下がたには、佛教、即ち偶像教でないやうに思召しが願ひたい、御像 の方は、高尚な美術品を御覽になるやうに、と存じて、つい御遊歩などと申すやう な次第でございますよ。」 「いや、いや、偶像でなくつて何うします。御姿を拜まないで、何を私たちが信ず るんです。貴下、偶像とおつしやるから不可ん。  名がありませう、一體毎に。  釋迦、文殊、普賢、勢至、觀音、皆、名があるではありませんか。」        八 「唯、人と言へば、他人です、何でもない。是に名がつきませう。名がつきますと、 父となります、母となり、兄となり、姉となります。其處で、其の人たちを、唯、 人にして扱ひますか。  偶像も同一です。唯偶像なら何でもない、此の御堂のは觀世音です、信仰をする んでせう。  ぢや、偶像は、木、金、乃至、土。それを金銀、珠玉で飾り、色彩を裝つたもの に過ぎないと言ふんですか。人間だつて、皮、血、肉、五臟、六腑、そんなもので 束ねあげて、是に衣ものを着せるんです。第一貴下、美人だつて、たかがそれまで のもんだ。  しかし、人には靈魂がある、偶像にはそれがない、と言ふかも知れん。其の、貴 下、其の貴下、靈魂が何だか分らないから、迷ひもする、悟りもする、危みもする、 安心もする、拜みもする、信心もするんですもの。  的がなくつて弓の修行が出來ますか。輕業、手品だつて學ばねばならんのです。  偶像は要らないと言ふ人に、そんなら、戀人は唯慕ふ、愛する、こがるゝだけで、 一緒にならんでも可いのか、姿を見んでも可いのか。姿を見たばかりで、口を利か ずとも、口を利いたばかりで、手に縋らずとも、手に縋つただけで、寢ないでも、 可いのか、と聞いて御覽なさい。  せめて夢にでも、其の人に逢ひたいのが實情です。  そら、幻にでも神佛を見たいでせう。  釋迦、文殊、普賢、勢至、觀音、御姿は難有い譯ではありませんか。」  出家は活々とした顏になつて、目の色が輝いた。心の籠つた口のあたり、髯の穴 も數へつべう、 「申されました、おもしろい。」  ぴたりと膝に手をついて、片手を額に加へたが、 「――うたゝ寐に戀しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき――」  と獨り俯向いた口の裏に誦したのは、柱に記した歌である。  此方も思はず彼處を見た、柱なる蜘蛛の絲、あざやかなりけり水莖の跡。 「然う承れば恥入る次第で、恥を申さねば分らんでありますが、うたゝ寐の、此の 和歌でござる、」 「其の歌が、」  と此方も膝の進むを覺えず。 「えゝ、御覽なさい。其處中、それ巡拜札を貼り散らしたと申すわけで、中にはな、 賣藥や、何かの廣告に使ひまするさうなが、それもありきたりで構はんであります。  又誰が、何時のまに貼つて參るかも分りませんので。處が、それ、其處の柱の、 其の……」 「はあ、あの歌ですか。」 「御覽になつたで、」 「先刻、貴下が聲をおかけなすつた時に、」 「お目に留まつたのでありませう、其は歌の主が分つて居ります。」 「婦人ですね。」 「然やうで、最も古歌でありますさうで、小野小町の、」 「多分然うのやうです。」 「詠まれたは御自分でありませんが、いや、丁と其の詠み主のやうな美人でありま してな、」 「此の玉脇……とか言ふ婦人が、」  と、口では澄まして然う言つたが、胸はそゞろに時めいた。 「成程、今貴下がお話しになりました、其の、御像のことに就いて、戀人云々のお 言葉を考へて見ますると、是は、みだらな心ではなうて、行き方こそ違ひまするが、 かすかに照らせ山の端の月、と申したやうに、觀世音にあこがるゝ心を、古歌に擬 らへたものであつたかも分りませぬ。――夢てふものは頼み初めてき――夢になり ともお姿をと言ふ。  眞個に、あゝいふ世に希な美人ほど、早く結縁いたして佛果を得た驗も澤山ござ いますから。  それを大掴に、戀歌を書き散らして參つた、怪しからぬ事と、さ、それも人によ りけり、お經にも、若有女人設欲求男、と有りまするから、一概に咎め立てはいた さんけれども。彼がために一人殺したでござります。」  聞くものは一驚を喫した。菜の花に見た蛇のそれより。        九 「まさかとお思ひなさるでありませう、お話が大分唐突でござつたで、」  出家は頬に手をあてゝ、俯いてやゝ考へ、 「いや、しかし戀歌でないといたして見ますると、其の死んだ人の方が、これは迷 ひであつたかも知れんでございます。」 「飛んだ話ぢやありませんか、それは又どうした事ですか。」  と、此方は何時か、最う御堂の疊に、にじり上つて居た。よしありげな物語を聞 くのに、懷が窮屈だつたから、懷中に押込んであつた、鳥打帽を引出して、傍に差 置いた。  松風が音に立つた。が、春の日なれば人よりも輕く、そよ/\と空を吹くのであ る。  出家は佛前の燈明を一寸見て、 「然ればでござつて。……  實は先刻お話し申した、ふとした御縁で、御堂の此の下の假庵室へお宿をいたし ました、其の御仁なのでありますが。  其の貴下、うたゝ寐の歌を、其處へ書きました、婦人のために……まあ、言つて 見ますれば戀煩ひ、いや、こがれ死をなすつたと申すものでございます。早い話が、」 「まあ、今時、どんな、男です。」 「丁ど貴下のやうな方で、」  呀? 茶釜でなく、這般文福和尚、澁茶にあらぬ振舞の三十棒、思はず後に瞠若 として、……唯苦笑するある而巳…… 「これは、飛んだ處へ引合ひに出しました、」  と言つて打笑ひ、 「おつしやる事と申し、矢張恁う云ふ事からお知己になつたと申し、うつかり、こ れは、」 「否、結構ですとも。戀で死ぬ、本望です。此の太平の世に生れて、戰場で討死を する機會がなけりや、おなじ疊の上で死ぬものを、憧れじにが洒落て居ます。  華族の金滿家へ生れて出て、戀煩ひで死ぬ、此のくらゐ有難い事はありますまい。 戀は叶ふ方が可ささうなもんですが、然うすると愛別離苦です。  唯死ぬほど惚れると云ふのが、金を溜めるより難いんでせう。」 「眞に御串戲ものでおいでなさる。はゝゝゝ、」 「眞面目ですよ。眞面目だけなほ串戲のやうに聞えるんです。あやかりたい人です ね。よくそんなのを見つけましたね。よくそんな、こがれ死をするほどの婦人が見 つかりましたね。」 「それは見ることは誰にでも出來ます。美しいと申して、竜宮や天上界へ參らねば 見られないのではござらんで、」 「ぢや現在居るんですね。」 「居りますとも。土地の人です。」 「此の土地のですかい。」 「然も此の久能谷でございます。」 「久能谷の、」 「貴下、何んでございませう、今日此處へお出でなさるには、其の家の前を、御通 行になりましたらうで、」 「其の美人の住居の前をですか。」  と言ふ時、機を織つた少い方の婦人が目に浮んだ、赫燿として菜の花に。 「……ぢや、あの、矢張農家の娘で、」 「否々、大財産家の細君でございます。」 「違ひました、」  と我を忘れて、呟いたが、 「然うですか、大財産家の細君ですか、ぢや最う主ある花なんですね。」 「然やうでございます。それがために、貴下、」 「なるほど、他人のものですね。而して誰が見ても綺麗ですか、美人なんですかい。」 「はい、夏向は隨分何千人と云ふ東京からの客人で、目の覺めるやうな美麗な方も ありまするが、なか/\此ほどのはないでございます。」 「ぢや、私が見ても戀煩ひをしさうですね、危險、危險。」  出家は眞面目に、 「何故でございますか。」 「歸路には氣を注けねばなりません。何處ですか、其の財産家の家は。」        十  菜種にまじる茅屋の彼方に、白波と、松吹風を右左、其處に旗のやうな薄霞に、 しつとりと紅の染む状に桃の花を彩つた、其の屋の棟より、高いのは一つもない。 「角の、あの二階家が、」 「えゝ?」 「彼が此の歌のかき人の住居でござつてな。」  聞くものは慄然とした。  出家は何んの氣もつかずに、 「尤も彼處へは、去年の秋、細君だけが引越して參つたので。丁ど私がお宿を致し た其御仁が……お名は申しますまい。」 「それが可うございます。」 「唯、客人――でお話をいたしませう。其の方が、庵室に逗留中、夜分な、海に入 つて亡くなりました。」 「溺れたんですか、」 「と……まあ見えるでございます、亡骸が岩に打揚げられてござつたので、怪我か、 それとも覺悟の上か、其處は先づ、お聞取りの上の御推察でありますが、私は前申 す通り、此の歌のためぢややうにな、」 「何しろ、それは飛んだ事です。」 「其の客人が亡くなりまして、二月ばかり過ぎてから、彼處へ、」  と二階家の遥なのを、雲の上から蔽ふやう、出家は法衣の袖を上げて、 「細君が引越して來ましたので。戀ぢや、迷ぢや、といふ一騷ぎござつた時分は、 此の濱方の本宅に一家族、……唯今でも其處が本家、まだ横濱にも立派な店がある のでありまして、主人は大方其方へ參つて居りませうが。  此の久能谷の方は、女中ばかり、眞に閑靜に住んで居ります。」 「すると別莊なんですね。」 「いや/\、――どうも話がいろ/\になります、――處が久能谷の、あの二階家 が本宅ぢやさうで、唯今の主人も、あの屋根の下で生れたげに申します。  其の頃は幽な暮しで、屋根と申した處が、あゝではありますまい。月も時雨もば らばら葺。それでも先代の親仁と言ふのが、最う唯今では亡くなりましたが、それ が貴下、小作人ながら大の節儉家で、積年の望みで、地面を少しばかり借りました のが、私庵室の脊戸の地續きで、以前立派な寺がありました。其住職の隱居所の跡 だつたさうにございますよ。  豆を植ゑようと、まことに恁う天氣の可い、のどかな、陽炎がひら/\畔に立つ 時分。  親仁殿、鍬をかついで、此の坂下へ遣つて來て、自分の借地を、先づならしかけ たでございます。  とツ樣晝上りにせつせえ、と小兒が呼びに來た時分、と申すで、お晝頃でありま せうな。  朝疾くから、出しなには寒かつたで、布子の半纏を着て居たのが、其陽氣なり、 働き通しぢや。親仁殿は向顱卷、大肌脱で、精々と遣つて居た處。大抵借用分の地 券面だけは、仕事が濟んで、是から些とほまちに山を削らうといふ料簡。づか/\ 山の裾を、穿りかけて居たさうでありますが、小兒が呼びに來たに就いて、一服遣 るべいかで、最う一鍬、すとんと入れると、急に土が軟かく、づぶ/\と柄ぐるみ にむぐずり込んだで。  づいと、引拔いた鍬について、じと/\と染んで出たのが、眞紅な、ねば/\と した水ぢや、」 「死骸ですか、」と切込んだ。 「大違ひ、大違ひ、」  と、出家は大きくかぶりを掉つて、 「註文通り、金子でござる、」 「成程、穿當てましたね。」 「穿當てました。海の中でも紅色の鱗は目覺しい。土を穿つて出る水も、然ういふ 場合には紫より、黄色より、青い色より、其の紅色が一番見る目を驚かせます。  はて、何んであらうと、親仁殿が固くなつて、もう二三度穿り擴げると、がつく り、うつろになつたので、山の腹へ附着いて、恁う覗いて見たさうにござる。」        十一 「大蛇が顋を開いたやうな、眞赤な土の空洞の中に、づほらとした黒い塊が見えた のを、鍬の先で掻出して見ると――甕で。  蓋が打缺けて居たさうでございますが、其處からもどろ/\と、其の丹色に底澄 んで光のある粘土やうのものが充滿。  別に何んにもありませんので、親仁殿は惜氣もなく打覆して、最う一箇あつた、 それも甕で、奧の方へ縱に二ツ並んで居たと申します――さあ、此の方が眞物でご ざつた。  開けかけた蓋を慌てて壓へて、きよろ/\と其處等Aしたさうでございますよ。  傍に居て覗き込んで居た、自分の小兒をさへ、睨むやうにして、じろりと見なが ら、何う悠々と、肌なぞを入れて居られませう。  素肌へ、貴下、嬰兒を負ふやうに、それ、脱いで置いたぼろ半纏で、しつかりく るんで、脊負上げて、がくつく腰を、鍬を杖にどツこいなぢや。默つて居ろよ、何 んにも言ふな、屹と誰にも饒舌るでねえぞ、と言ひ續けて、内へ歸つて、納戸を閉 切つて暗くして、お佛壇の前へ筵を敷いて、其處へざく/\と裝上げた。尤も年が 經つて薄黒くなつて居たさうでありますが、其の晩から小屋は何んとなく暗夜にも 明るかつた、と近所のものが話でござつて。  極性な朱でござつたらう、ぶちまけた甕充滿のが、時ならぬ曼珠沙華が咲いたや うに、山際に燃えて居て、五月雨になつて消えましたとな。  些と日數が經つてから、親仁どのは、村方の用達かた/\、東京へ參つた序に芝 口の兩換店へ寄つて、汚い煙草入から煙草の粉だらけなのを一枚だけ、そつと出し て、幾干に買はつしやる、と當つて見ると、いや抓んだ爪の方が黄色いくらゐでご ざつたに、正のものとて爭はれぬ、七兩ならば引替へにと言ふのを、もツと氣張つ てくれさつせえで、とう/\七兩一分に替へたのがはじまり。  そちこち、氣長に金子にして、やがて船一艘、古物を買ひ込んで、海から薪炭の 荷を廻し、追々材木へ手を出しかけ、船の數も七艘までに仕上げた時、すつぱりと 賣物に出して、さて、地面を買ふ、店を擴げる、普請にかゝる。  土臺が極ると、山の貸元になつて、坐つて居て商賣が出來るやうになりました、 高利は貸します。  どかとした山の林が、あの裸になつては、店さきへすく/\と並んで、いつの間 にか金を殘しては何處へか參る。  其の筈でござるて。  利のつく金子を借りて山を買ふ、木を伐りかけ、資本に支へる。こゝで材木を抵 當にして、又借りる。すぐに利がつく、又伐りかゝる、資本に支へる、又借りる、 利でござらう。借りた方は精々と樹を伐り出して、貸元の店へ材木を並べるばかり。 追つかけられて見切つて賣るのを、安く買ひ込んで又儲ける。行つたり、來たり、 家の前を通るものが、金子を置いては失せるであります。  妻子眷屬、一時にどし/\と殖えて、人は唯、天狗が山を飮むやうな、と舌を卷 いたでありまするが、蔭ぢや――其の――鍬を杖で胴震ひの一件をな、はゝゝゝ、 此方人等、其の、も一ツの甕の朱の方だつて、手を押つけりや血になるだ、なぞと、 ひそ/\話を遣るのでござつて、」 「然う云ふ人たちは又可い鹽梅に穿當てないもんですよ。」  と顏を見合はせて二人が笑つた。 「よくしたものでございます。いくら隱して居ることでも何處を何うして知れます かな。  いや、それに就いて、」  出家は思出したやうに、 「恁う云ふ話がございます。其の、誰にも言ふな、と堅く口留めをされた齊之助と いふ小兒が、(父樣は野良へ行つて、穴のない天保錢をドシコと脊負つて歸らした よ。)  ……如何でござる、はゝゝはゝ。」 「なるほど、穴のない天保錢。」 「其の穴のない天保錢が、當主でございます。多額納税議員、玉脇齊之助。令夫人 おみを殿、其の歌をかいた美人であります、如何でございます、貴下、」        十二 「先づお茶を一ツ。御約束通り澁茶でござつて、碌にお茶臺もありませんかはりに は、がらんとして自然に片づいて居ります。お寛ぎ下さい。秋になりますると、こ れで町へ遠うございますかはりには、栗柿に事を缺きませぬ。烏を追つて柿を取り、 高音を張ります鵙を驚かして、栗を落してなりと差上げませうに。  まあ、何よりもお樂に、」  と袈裟をはづして釘にかけた、障子に緋桃の影法師。今物語の朱にも似て、破目 を暖く燃ゆる状、法衣をなぶる風情である。  庵室から打仰ぐ、石の階子は梢にかゝつて、御堂は屋根のみ浮いたやう、緑の雲 にふつくりと沈んで、山の裾の、縁に迫つて萌葱なれば、あま下る蚊帳の外に、誰 待つとしもなき二人、煙らぬ火鉢のふちかけて、ひら/\と蝶が來る。 「御堂の中では何んとなく氣もあらたまります。此處でお茶をお入れ下すつた上の お話ぢや、結構過ぎますほどですが、あの歌に別れて來たので、何んだかなごり惜 い心持もします。」 「けれども、石段だけも、婀娜な御本尊へは路が近うなつてございますから、はゝ はゝ。  實の處佛の前では、何か私が自分に懺悔でもしまするやうで心苦しい。此處であ りますと大きに寛ぐでございます。  師のかげを七尺去ると最うなまけの通りで、困つたものでありますわ。  其處で客人でございます。――  日頃のお話ぶり、行爲、御容子な、」 「どういふ人でした。」 「それは申しますまい。私も、盲の垣覗きよりもそツと近い、机覗きで、讀んでお いでなさつた、書物などの、お話も伺つて、何をなさる方ぢやと言ふ事も存じて居 りますが、經文に書いてあることさへ、愚昧に饒舌ると間違ひます。  故人をあやまり傳へてもなりませず、何か評をやるやうにも當りますから、唯々、 かのな、婦人との模樣だけ、お物語しませうで。  一日晩方、極暑のみぎりでありました。濱の散歩から返つてござつて、(和尚さ ん、些と海へ行つて御覽なさいませんか。綺麗な人が居ますよ。) (はゝあ、どんな、貴下、) (あの松原の砂地から、小松橋を渡ると、急にむかうが遠目金を嵌めたやうに圓い 海になつて富士の山が見えますね、)  これは御存じでございませう。」 「知つて居ますとも。毎日のやうに遊びに出ますもの、」 「あの橋の取附きに、松の樹で取廻して――松原はづツと河を越して廣い洲の林に なつて居りますな――而して庭を廣く取つて、大玄關へ石を敷詰めた、素ばらしい 門のある邸がございませう。あれが、それ、玉脇の住居で。  實はあの方を、東京の方がなさる別莊を眞似て造つたでありますが、主人が交際 ずきで頻と客をしまする處、いづれ海が、何よりの呼物でありますに。此の久能谷 の方は、些と足場が遠くなりますから、すべて、見得裝飾を向うへ持つて參つて、 小松橋が本宅のやうになつて居ります。  其處で、去年の夏頃は、御新姐、申すまでもない、そちらに居たでございます。  で其の――小松橋を渡ると、急に遠目金を覗くやうな圓い海の硝子へ――ぱつと 一杯に映つて、とき色の服の姿が浪の青いのと、巓の白い中へ、薄い虹がかゝつた やうに、美しく靡いて來たのがある。……  と言はれたは、即ち、それ、玉脇の……でございます。  しかし、其時はまだ誰だか本人も御存じなし、聞く方でも分りませんので。どう いふ別嬪でありました、と串戲にな、團扇で煽ぎながら聞いたでございます。  客人は海水帽を脱いだばかり、未だ部屋へも上らず、其の縁側に腰をかけながら。 (誰方か、尊いくらゐでした。)」        十三 「大分氣高く見えましたな。  客人が言ふには、 (二三間あひを置いて、おなじやうな浴衣を着た、帶を整然と結んだ、女中と見え るのが附いて通りましたよ。  唯すれ違ひざまに見たんですが、目鼻立ちのはつきりした、色の白いことゝ、唇 の紅さつたらありませんでした。  盛裝と云ふ姿だのに、海水帽をうつむけに被つて――近所の人ででもあるやうに、 無造作に見えましたつけ。むかう、然うやつて下を見て帽子の廂で日を避けるやう にして來たのが、眞直に前へ出たのと、顏を見合はせて、兩方へ避ける時、濃い睫 毛から瞳を涼くFいたのが、雪舟の筆を、紫式部の硯に染めて、濃淡のぼかしをし たやうだつた。  何んとも言へない、美しさでした。  いや、恁う云ふことをお話します、私は鳥羽繪に肖て居るかも知れない。  さあ、御飯を頂いて、柄相應に、月夜の南瓜畑でも又見に出ませうかね。)  爾晩は貴下、唯それだけの事で。  翌日また散歩に出て、同じ時分に庵室へ歸つて見えましたから、私が串戲に、 (雪舟の筆は如何でござつた。) (今日は曇つた所爲か見えませんでした。)  それから二三日經つて、 (まだお天氣が直りませんな。些と涼しすぎるくらゐ、御歩行には宜しいが、矢張 雲がくれでござつたか。) (否、源氏の題に、小松橋といふのはありませんが、今日はあの橋の上で、) (それは、おめでたい。)  などと笑ひまする。 (まるで人違ひをしたやうに粹でした。私が是から橋を渡らうと云ふ時、向うの袂 へ、十二三を頭に、十歳ぐらゐのと、七八歳ばかりのと、男の兒を三人連れて、其 中の小さいのの肩を片手で敲きながら、上から覗き込むやうにして、莞爾して橋の 上へかゝつて來ます。  どんな婦人でも羨しがりさうな、すなほな、房りした花月卷で、薄お納戸地に、 ちら/\と膚の透いたやうな、何んの中形だか浴衣がけで、それで、きちんとした 衣紋附。  絽でせう、空色と白とを打合はせの、模樣は一寸分らなかつたが、お太鼓に結ん だ、白い方が、腰帶に當つて水無月の雪を抱いたやうで、見る目に、ぞツとして擦 れ違ふ時、其の人は、忘れた形に手を垂れた、其の兩手は力なささうだつたが、幽 にぶる/\と肩が搖れたやうでした、傍を通つた男の氣に襲はれたものでせう。  通り縋ると、どうしたのか、我を忘れたやうに、私は、あの、低い欄干へ、腰を かけて了つたんです。拔けたのだなぞと言つては不可ません。下は川ですから、あ れだけの流でも、落ちようもんなら其切です――淵や瀬でないだけに、救助船とも 喚かれず、又叫んだ處で、人は串戲だと思つて、笑つて見殺しにするでせう、泳を 知らないから、)  と言つて、苦笑をしなさつたつけ……それが眞實になつたでございます。  何うしたことか、此の戀煩に限つては、傍のものは、あは/\、笑つて見殺しに いたします。  私はじめ串戲半分、ひやかし旁々、今日は例のは如何で、などと申したでござい ます。  これは、貴下でも然やうでありませう。」  然れば何んと答へよう、喫んでた煙草の灰をはたいて、 「ですかな……どうも、これだけは眞面目に介抱は出來かねます。娘が煩ふのだと、 乳母が始末をする仕來りになつて居りますがね、男のは困りますな。  そんな時、其の川で沙魚でも釣つて居たかつたですね。」 「はゝゝゝ、是はをかしい。」  と出家は興ありげにハタと手を打つ。        十四 「是はをかしい、釣といへば丁ど其時、向う詰の岸に踞んで、ト釣つて居たものが あつたでござる。橋詰の小店、荒物を商ふ家の亭主で、身體の痩せて引緊つたには 似ない、褌の緩い男で、因果とのべつ釣をして、はだけて居ませう、眞にあぶなツ かしい形でな。  渾名を一厘土器と申すでござる。天窓の眞中の兀工合が、宛然ですて――川端の 一厘土器――これが爾時も釣つて居ました。  庵室の客人が、唯今申す欄干に腰を掛けて、おくれ毛越にはら/\と靡いて通る、 雪のやうな襟脚を見送ると、今、小橋を渡つた處で、中の十歳位のがじやれて、其 の腰へ抱き着いたので、白魚といふ指を反らして、輕く其の小兒の脊中を打つた時 だつたと申します。 (お坊ちやま、お坊ちやま、)  と大聲で呼び懸けて、 (手巾が落ちました、)と知らせたさうでありますが、件の土器殿も、餌は振舞ふ 氣で、粹な後姿を見送つて居たものと見えますよ。 (やあ、)と言つて、十二三の一番上の兒が、駈けて返つて、橋の上へ落して行つ た白い手巾を拾つたのを、懷中へ突込んで、默つて又飛んで行つたさうで。小兒だ から、辭儀も挨拶もないでございます。  御新姐が、禮心で顏だけ振向いて、肩へ、頤をつけるやうに、唇を少し曲げて、 其の涼い目で、熟と此方を見返つたのが取違へたものらしい、私が許の客人と、ぴ つたり出會つたでありませう。  引込まれて、はツと禮を返したが、其ツ切。御新姐の方は見られなくつて、傍を 向くと貴下、一厘土器が怪訝な顏色。  いや最う、しつとり冷汗を掻いたと言ふ事、――こりや成程。極がよくない。  局外のものが何んの氣もなしに考へれば、愚にもつかぬ事なれど、色氣があつて 御覽じろ。第一、野良聲の調子ツぱづれも可笑い處へ、自分主人でもない餘所の小 兒を、坊やとも、あの兒とも言ふにこそ、へつらひがましい、お坊ちやまは不見識 の行止り、申さば器量を下げた話。  今一方からは、右の土器殿にも小恥かしい次第でな。他人のしんせつで手柄をし たやうな、變な羽目になつたので。  御本人、然うとも口へ出して言はれませなんだが、それから何んとなく鬱ぎ込む のが、傍目にも見えたであります。  四五日、引籠つてござつたほどで。  後に、何も彼も打明けて私に言ひなさつた時の話では、しかし又其の間違が縁に なつて、今度出會つた時は、何んとなく兩方で挨拶でもするやうになりはせまいか。 然うすれば、どんなにか嬉しからう、本望ぢや、と思はれたさうな。迷ひと申すは おそろしい、情ないものでござる。世間大概の馬鹿も、これほどなことはないでご ざいます。  三度目には御本人、」 「又出會つたんですかい。」  と聞くものも待ち構へる。 「今度は反對に、濱の方から歸つて來るのと、濱へ出ようとする御新姐と、例の出 口の處で逢つたと言ひます。  大分最う薄暗くなつて居ましたさうで……土用あけからは、目に立つて日が詰り ます處へ、一度は一度と、散歩のお歸りが遲くなつて、蚊遣りでも我慢が出來ず、 私が此處へ蚊帳を釣つて潛込んでから、歸つて見えて、晩飯も最う、なぞと言はれ るさへ折々の事。  爾時も、早や黄昏の、とある、人顏、朧ながら月が出たやうに、見違へない其人 と、思ふと、男が五人、中に主人も居たでありませう。婦人は唯御新姐一人、それ を取卷く如くにして、どや/\と些と急足で、浪打際の方へ通つたが、其の人數ぢ や、空頼めの、餘所ながら目禮處の騷ぎかい、貴下、其の五人の男と云ふのが、」        十五 「眉の太い、怒り鼻のがあり、額の廣い、顎の尖つた、下目で睨むやうなのがあり、 仰向けざまになつて、頬髯の中へ、煙も出さず葉卷を突込んで居るのがある。くる りと尻を引捲つて、扇子で叩いたものもある。どれも浴衣がけの下司は可いが、其 の中に淺黄の兵兒帶、結目をぶらりと二尺ぐらゐ、こぶらの邊までぶら下げたのと、 緋縮緬の扱帶をぐる/\卷きに胸高は沙汰の限。前のは御自分ものであらうが、扱 帶の先生は、酒の上で、小間使のを分捕の次第らしい。  此が、不思議に客人の氣を惡くして、入相の浪も物凄くなりかけた折からなり、 彼の、赤鬼青鬼なるものが、かよわい人を冥土へ引立てて行くやうで、思ひなしか、 引挾まれた御新姐は、何んとなく物寂しい、快からぬ、滅入つた容子に見えて、も のあはれに、命がけにでも其奴等の中から救つて遣りたい感じが起つた。家庭の樣 子も略々知れたやうで、氣が揉める、と言はれたのでありますが、貴下、これは無 理ぢやて。  地獄の繪に、天女が天降つた處を描いてあつて御覽なさい。餓鬼が救はれるやう で尊かろ。  蛇が、つかはしめぢやと申すのを聞いて、辯財天を、噫、お氣の毒な、嘸お氣味 が惡からうと思ふものはありますまいに。迷ひぢやね。」  散策子は是に少しく腕組みした。 「しかし何ですよ、女は、自分の惚れた男が、別嬪の女房を持つてると、嫉妬らし いやうですがね。男は反對です、」  と聊か論ずる口吻。 「はゝあ、」 「男は然うでない。惚れてる婦人が、小野小町花、大江千里月といふ、對句通りに なると安心します。  唯今の、其の淺黄の兵兒帶、緋縮緬の扱帶と來ると、些と考へねばならなくなる。 耶蘇教の信者の女房が、主キリストと抱かれて寢た夢を見たと言ふのを聞いた時の 心地と、囘々教の魔神になぐさまれた夢を見たと言ふのを聞いた時の心地とは、屹 とそれは違ひませう。  どつち路、嬉しくない事は知れて居ますがね、前のは、先づ/\と我慢が出來る、 後のは、堪忍がなりますまい。  まあ、そんな事は措いて、何んだつて又、然う言ふ不愉快な人間ばかりが其の夫 人を取卷いて居るんでせう。」 「其處は、玉脇がそれ鍬の柄を杖に支いて、ぼろ半纏に引くるめの一件で、あゝ遣 つて大概な華族も及ばん暮しをして、交際にかけては錢金を惜まんでありますが、 情ない事には、遣方が遣方ゆゑ、身分、名譽ある人は寄つきませんで、悲哉其段は、 如何はしい連中ばかり。」 「お待ちなさい、成程、然うすると其の夫人と言ふは、どんな身分の人なんですか。」  出家はあらためて、打頷き、且つ咳して、 「其處でございます、御新姐はな、年紀は、さて、誰が目にも大略は分ります、先 づ二十三四、それとも五六かと言ふ處で、」 「それで三人の母樣? 十二三のが頭ですかい。」 「否、どれも實子ではないでございます。」 「まゝツ兒ですか。」 「三人とも先妻が産みました。此の先妻についても、まづ、一くさりのお話はある でございますが、それは餘事ゆゑに申さずとも宜しかろ。  二三年前に、今のを迎へたのでありますが、此處でありますよ。  何處の生れだか、育ちなのか、誰の娘だか、妹だか、皆目分らんでございます。 貸して、かたに取つたか、出して買ふやうにしたか。落魄れた華族のお姫樣ぢやと 言ふのもあれば、分散した大所の娘御だと申すのもあります。然うかと思ふと、箔 のついた藝娼妓に違ひないと申すもあるし、豪いのは高等淫賣の上りだらうなどと、 甚しい沙汰をするのがござつて、丁と底知れずの池に棲む、ぬしと言ふもののやう に、素性が分らず、つひぞ知つたものもない樣子。」        十六 「何にいたせ、私なぞが通りすがりに見掛けましても、何んとも當りがつかぬでご ざいます。勿論又、坊主に鑑定の出來よう筈はなけれどもな。其の眉のかゝり、目 つき、愛嬌があると申すではない。口許なども凛として、世辭を一つ言ふやうには 思はれぬが、唯何んとなく賢げに、戀も無常も知り拔いた風に見える。身體つきに も顏つきにも、情が滴ると言つた状ぢや。  戀ひ慕ふものならば、馬士でも船頭でも、われら坊主でも、無下に振切つて邪險 にはしさうもない、假令戀はかなへぬまでも、然るべき返歌はありさうな。帶の結 目、袂の端、何處へ一寸障つても、情の露は男の骨を溶解かさずと言ふことなし、 と申す風情。  然れば、氣高いと申しても、天人神女の俤ではなうて、姫路のお天守に緋の袴で 燈臺の下に何やら書を繙く、それ露が滴るやうに婀娜なと言うて、水道の水で洗ひ 髮ではござらぬ。人跡絶えた山中の温泉に、唯一人雪の膚を泳がせて、丈に餘る黒 髮を絞るとかの、それに肖まして。  慕はせるより、懷しがらせるより、一目見た男を魅する、力廣大。少からず、地 獄、極樂、娑婆も見に附絡うて居さうな婦人、從うて、罪も報も淺からぬげに見え るでございます。  處へ、迷うた人の事なれば、淺黄の帶に緋の扱帶が、牛頭馬頭で、逢魔時の浪打 際へ引立ててでも行くやうに思はれたのでありませう――私どもの客人が――然う 云ふ心持で御覽なさればこそ、其後は玉脇の邸の前を通がかり。……  濱へ行く町から、横に折れて、背戸口を流れる小川の方へ引廻した蘆垣の蔭から、 松林の幹と幹とのなかへ、襟から肩のあたり、くつきりとした耳許が際立つて、帶 も裾も見えないのが、浮出したやうに眞中へあらはれて、後前に、是も肩から上ば かり、爾時は男が三人、一ならびに松の葉とすれ/\に、しばらく桔梗苅萱が靡く やうに見えて、段々低くなつて隱れたのを、何か、自分との事のために、離座敷か、 座敷牢へでも、送られて行くやうに思はれた、後前を引挾んだ三人の漢の首の、兇 惡なのが、確に其の意味を語つて居たわ。最う是切、未來まで逢へなからうかとも 思はれる、と無理なことを言ふのであります。  さ、是もぢや、玉脇の家の客人だち、主人まじりに、御新姐が、庭の築山を遊ん だと思へば、それまででありませうに。  とう/\表通りだけでは、氣が濟まなくなつたと見えて、前申した、其の背戸口、 搦手のな、川を一つ隔てた小松原の奧深く入り込んで、うろつくやうになつたさう で。  玉脇の持地ぢやありますが、此の松原は、野開きにいたしてござる。中には汐入 の、一寸大きな池もあります。一面に青草で、これに松の翠がかさなつて、唯今頃 は菫、夏は常夏、秋は萩、眞個に幽翠な處、些と行らしつて御覽じろ。」 「薄暗い處ですか、」 「藪のやうではありません。眞蒼な處であります。本でも御覽なさりながらお歩行 きには、至極宜しいので、」 「蛇が居ませう、」  と唐突に尋ねた。 「お嫌ひか。」 「何とも、どうも、」 「否、何の因果か、あのくらゐ世の中に嫌はれるものも少なうござる。  しかし、氣をつけて見ると、あれでもしをらしいもので、路端などを我は顏で伸 してる處を、人が參つて、熟と視めて御覽なさい。見返しますがな、極りが惡さう に鎌首を垂れて、向うむきに羞含みますよ。憎くないもので、はゝゝはゝ、矢張心 がありますよ。」 「心があらはれては尚困るぢやありませんか。」 「否、鹽氣を嫌ふと見えまして、其の池のまはりには些とも居りません。邸には此 頃ぢや、其の魅するやうな御新姐も留主なり、穴はすか/\と眞黒に、足許に蜂の 巣になつて居りましても、蟹の住居、落ちるやうな憂慮もありません。」        十七 「客人は、其の穴さへ、白髑髏の目とも見えたでありませう。  池をまはつて、川に臨んだ、玉脇の家造を、何か、御新姐のためには牢獄ででも あるやうな考へでござるから。  さて、潮のさし引ばかりで、流れるのではありません、どんより鼠色に淀んだ岸 に、浮きもせず、沈みもやらず、末始終は碎けて鯉鮒にもなりさうに、何時頃のか 五六本、丸太が浸つて居るのを見ると、あゝ、切組めば船になる。繋合はせば筏に なる。然るに、綱も棹もない、戀の淵は是で渡らねばならないものか。  生身では渡られない。靈魂だけなら乘れようものを。あの、樹立に包まれた木戸 の中には、其の人が、と足を爪立つたりなんぞして。  蝶の目からも、餘りふは/\して見えたでござらう。小松の中をふらつく自分も、 何んだか其の、肩から上ばかりに、裾も足もなくなつた心地、日中の妙な蝙蝠ぢや て。  懷中から本を出して、    蝋光高懸照紗空、 らふくわうたかくかゝりしやをてらしてむなし    花房夜搗紅守宮、 くわばうよるつくこうしゆきゆう    象口吹香I暖、 ぞうこうかうをふいてたふとうあたゝかに    七星挂城聞漏板、 しちせいしろにかゝつてろうばんをきく    寒入罘K殿影昏、 さむさふしにいつてでんえいくらく    彩鸞簾額著霜痕、 さいらんれんがくさうこんをつく  えゝ、何んでも此處は、蛄が鉤闌の下に月に鳴く、魏の文帝に寵せられた甄夫人 が、後におとろへて幽閉されたと言ふので、鎖阿甄。とあつて、それから、    夢入家門上沙渚、 ゆめにかもんにいつてしやしよにのぼる    天河落處長洲路、 てんがおつるところちやうしうのみち    願君光明如太陽、 ねがはくばきみくわうみやうたいやうのごとくなれ  妾を放て、然うすれば、魚に騎し、波をLいて去らむ、と云ふのを微吟して、思 はず、襟にはら/\と涙が落ちる。目をFつて、其の水中の木材よ、いで、浮べ、 鰭ふつて木戸に迎へよ、と睨むばかりに瞻めたのでござるさうな。些と尋常事であ りませんな。  詩は唐詩選にでもありませうか。」 「どうですか。えゝ、何んですつて――夢に家門に入つて沙渚に上る。魂が沙漠を さまよつて歩行くやうね、天河落處長洲路、あはれぢやありませんか。  それを聞くと、私まで何んだか、其の婦人が、幽閉されて居るやうに思ひます。  それから何うしましたか。」 「どうと申して、段々頤がこけて、日に増し目が窪んで、顏の色が愈々惡い。  或時、大奮發ぢや、と言うて、停車場前の床屋へ、顏を剃りに行かれました。其 の時だつたと申す事で。  頭を洗ふし、久しぶりで、些心持も爽になつて、ふらりと出ると、田舎には荒物 屋が多いでございます、紙、煙草、蚊遣香、勝手道具、何んでも屋と言つた店で。 床店の筋向うが、矢張其の荒物店であります處、戸外へは水を打つて、軒の提燈に は未だ火を點さぬ、溝石から往來へ縁臺を跨がせて、差向ひに將棊を行つて居ます。 端の歩が附木、お定りの奴で。  用なしの身體ゆゑ、客人が其處へ寄つて、路傍に立つて、兩方とも矢鱈に飛車角 の取替へこ、ころり/\差違へる毎に、ほい、ほい、と言ふ勇ましい掛聲で。おま けに一人の親仁なぞは、媽々衆が行水の間、引渡されたものと見えて、小兒を一人 胡坐の上へ抱いて、雁首を俯向けに銜へ煙管。  で銜へたまんま、待てよ、どつこい、と言ふ毎に、煙管が打附りさうになるので、 抱かれた兒は、親仁より、餘計に額に皺を寄せて、雁首を狙つて取らうとする。火 は附いて居ないから、火傷はさせぬが、夢中で取られまいと振動かす、小兒は手を 出す、飛車を遁げる。  よだれを垂々と垂らしながら、占た! とばかりで矢庭に對手の玉將を引掴むと、 大きな口をへの字形に結んで見て居た赭ら顏で、脊高の、胸の大きい禪門が、鐵梃 のやうな親指で、いきなり勝つた方の鼻つ頭をぐいと掴んで、豪いぞ、と引伸ばし たと思し召せ、はゝゝはゝ。」        十八 「大きな、ハツクサメをすると煙草を落した。額こツつりで小兒は泣き出す、負け た方は笑ひ出す、涎と何んかと一緒でござらう。鼻をつまんだ禪門、苦々しき顏色 で、指を持餘した、鹽梅な。  これを機會に立去らうとして、振返ると、荒物屋と葭簀一枚、隣家が間に合はせ の郵便局で。其處の門口から、すらりと出たのが例の其人。汽車が着いたと見えて、 馬車、車がら/\と五六臺、それを見に出たものらしい、郵便局の軒下から往來を 透かすやうにした、目が、ばつたり客人と出逢つたでありませう。  心ありさうに、然うすると直ぐに身を引いたのが、隔ての葭簀の陰になつて、顏 を脊向けもしないで、其處で向直つて此方を見ました。  軒下の身を引く時、目で引つけられたやうな心持がしたから、此方も又葭簀越に。  爾時は、總髮の銀杏返で、珊瑚の五分珠の一本差、髮の所爲か、いつもより眉が 長く見えたと言ひます。浴衣ながら帶には黄金鎖を掛けて居たさうでありますが、 搖れて其の音のするほど、此方を透すのに胸を動かした、顏がさ、葭簀を横にちら ちらと霞を引いたかと思ふ、是に眩くばかりになつて、思はず一寸會釋をする。  向うも、伏目に俯向いたと思ふと、リン/\と貴下、高く響いたのは電話の報知 ぢや。  是を待つて居たでございますな。  すぐに電話口へ入つて、姿は隱れましたが、淺間ゆゑ、よく聞える。 (はあ、私。あなた、餘りですわ。餘りですわ。何うして來て下さらないの。怨ん で居ますよ。あの、あなた、夜も寢られません。はあ、夜中に汽車のつくわけはあ りませんけれども、それでも今にもね、來て下さりはしないかと思つて。  私の方はね、もうね、一寸……どんなに離れて居りましても、あなたの聲はね、 電話でなくつても聞えます。あなたには通じますまい。  どうせ、然うですよ。それだつて、こんなにお待ち申して居る、私の爲ですもの ……氣をかねてばかりいらつしやらなくても宜しいわ。些とは不義理、否、父さん やお母さんに、不義理と言ふこともありませんけれど、ね、私は生命かけて、屹と ですよ。今夜にも、寢ないでお待ち申しますよ。あ、あ、たんと、そんなことをお 言ひなさい、どうせ寢られないんだから可うございます。怨みますよ。夢にでもお 目にかゝりませうねえ。否、待たれない、待たれない……)  お道か、お光か、女の名前。 (……みいちやん、然やうなら、夢で逢ひますよ。)――  きり/\と電話を切つたて。」 「へい、」  と思はず聞惚れる。 「其日は歸つてから、豪い元氣で、私はそれ、涼しさやと言つた句の通り、縁から 足をぶら下げる。客人は其處の井戸端に焚きます据風呂に入つて、湯をつかひなが ら、露出しの裸體談話。  其方と、此方で、高聲でな。尤も隣り近所はござらぬ。かけかまひなしで、電話 の假聲まじりか何かで、 (やあ、和尚さん、梅の青葉から、湯氣の中へ絲を引くのが、月影に光つて見える、 蜘蛛が下りた、)  と大氣焔ぢや。 (萬歳々々、今夜お忍か。) (勿論、)  と答へて、頭のあたりをざぶ/\と、仰いで天に愧ぢざる顏色でありました。が、 日頃の行ひから察して、如何に、思死をすればとて、苟も主ある婦人に、然ういふ 不料簡を出すべき仁でないと思ひました、果せる哉。  冷奴に紫蘇の實、白瓜の香の物で、私と取膳の飯を上ると、帶を緊め直して、 (もう一度そこいらを。)  いや、これはと、ぎよつとしたが、垣の外へ出られた姿は、海の方へは行かない で、それ、其の石段を。」  一面の日當りながら、蝶の羽の動くほど、山の草に薄雲が輕く靡いて、檐から透 すと、峰の方は暗かつた、餘り暖さが過ぎたから。        十九  降らうも知れぬ。日向へ蛇が出て居る時は、雨を持つといふ、來がけに二度まで 見た。  で、雲が被つて、空氣が濕つた所爲か、笛太鼓の囃子の音が山一ツ越えた彼方と 思ふあたりに、蛙が喞くやうに、遠いが、手に取るばかり、然も沈んでうつゝの音 樂のやうに聞えて來た。靄で蝋管の出來た蓄音機の如く、且つ遙に響く。  それまでも、何かそれらしい音はしたが、極めて散漫で、何の聲とも纏まらない。 村々の蔀、柱、戸障子、勝手道具などが、日永に退屈して、のびを打ち、欠伸をす る氣勢かと思つた。未だ晝前だのに、――時々牛の鳴くのが入交つて――時に笑ひ 興ずるやうな人聲も、動かない、靜かに風に傳はるのであつた。  フト耳を澄ましたが、直ぐに出家の言になつて、 「大分町の方が賑ひますな。」 「祭禮でもありますか。」 「これは停車場近くにいらつしやると承りましたに、つい御近所でございます。  停車場の新築開き。」  如何にも一月ばかり以前から取沙汰した今日は當日。規模を大きく、建直した落 成式、停車場に舞臺がかゝる、東京から俳優が來る、村のものの茶番がある、餅を 撒く、昨夜も夜通し騷いで居て、今朝來がけの人通りも、よけて通るばかりであつ たに、はたと忘れて居たらしい。 「まつたくお話に聞惚れましたか、此方が里離れて閑靜な所爲か、些とも氣が附か ないで居りました。實は餘り騷々しいので、そこを遁げて參つたのです。しかし降 りさうになつて來ました。」  出家の額は仰向けに廂を潛つて、 「ねんばり一濕りでございませう。地雨にはなりますまい。何、又、雨具もござる。 芝居を御見物の思召がなくば、まあ御緩りなすつて。  あの音もさ、面白可笑しく、此方も見物に參る氣でもござると、ぢつと落着いて は居られない程、浮いたものでありますが、さて恁う、かけかまひなしに、遠ざか つて居りますと、世を一ツ隔てたやうに、寂しい、陰氣な、妙な心地がいたすでは ありませんか。」 「眞箇ですね。」 「昔、井戸を掘ると、地の下に犬鶏の鳴く音、人聲、牛車の軋る音などが聞えたと いふ話があります。それに似て居りますな。  峠から見る、霧の下だの、暗の浪打際、ぼうと灯が映る處だの、恁やうに山の腹 を向うへ越した地の裏などで、聞きますのは、をかしく人間業でないやうだ。夜中 に聞いて、狸囃子と言ふのも至極でございます。  いや、それに、就きまして、お話の客人でありますが、」  と、茶を一口急いで飮み、さしおいて、 「さて今申した通り、夜分に此の石段を上つて行かれたのでありまして。  しかし此は情に激して、發奮んだ仕事ではなかつたのでございます。  恁うやつて、此の庵室に馴れました身には、石段はつい、通ひ廊下を縱に通るほ どな心地でありますからで。客人は、堂へ行かれて、柱板敷へひら/\と大きくさ す月の影、海の果には入日の雲が燒殘つて、ちら/\眞紅に、黄昏過ぎの渾沌とし た、水も山も唯一面の大池の中に、其の軒端洩る夕日の影と、消え殘る夕燒の雲の 片と、紅蓮白蓮の咲亂れたやうな眺望をなさつたさうな。これで御法の船に同じい、 御堂の縁を離れさへなさらなかつたら、海に溺れるやうなことも起らなんだでござ いませう。  爰に希代な事は――  堂の裏山の方で、頻りに、其の、笛太鼓、囃子が聞えたと申す事――  唯今、それ、聞えますな。あれ、あれとは、まるで方角は違ひます。」  と出家は法衣でづいと立つて、廂から指を出して、御堂の山を左の方へぐいと指 した。立ち方の唐突なのと、急なのと、目前を塞いだ墨染に、一天する墨を流すか と、袖は障子を包んだのである。        二十 「堂の前を左に切れると、空へ拔いた隧道のやうに、兩端から突出ました巖の間、 樹立を潛つて、裏山へかゝるであります。  兩方谷、海の方は、山が切れて、眞中の路を汽車が通る。一方は一谷落ちて、そ れからそれへ、山又山、次第に峰が重なつて、段々雲霧が深くなります。處々、山 の尾が樹の根のやうに集つて、廣々とした青田を抱へた處もあり、炭燒小屋を包ん だ處もございます。  其處で、此の山傳ひの路は、崕の上を高い堤防を行く形、時々、島や白帆の見晴 しへ出ますばかり、あとは生繁つて眞暗で、今時は、然までにもありませぬが、草 が繁りますと、分けずには通られません。  谷には鶯、峰には目白四十雀の囀つて居る處もあり、紺青の巖の根に、春は菫、 秋は龍膽の咲く處。山清水がしと/\と涌く徑が藥研の底のやうで、兩側の篠笹を 跨いで通るなど、ものの小半道踏分けて參りますと、其處までが一峰で。それから 崕になつて、郡が違ひ、海の趣もかはるのでありますが、其崕の上に、たとへて申 さば、此の御堂と脊中合はせに、山の尾へ凭つかゝつて、彼是大佛ぐらゐな、石地 藏が無手と胡坐してござります。それがさ、石地藏と申し傳へるばかり、餘程のあ ら刻みで、まづ坊主形の自然石と言うても宜しい。妙にお顏の尖がつた處が、拜む と凄うござつてな。  堂は形だけ殘つて居りますけれども、勿體ないほど大破いたして、密と參つても 床なぞづぶ/\と踏拔きますわ。屋根も柱も蜘蛛の巣のやうに狼藉として、これは 又境内へ足の入場もなく、崕へかけて倒れてな、でも建物があつた跡ぢや、見霽し の廣場になつて居りますから、これから山越をなさる方が、うつかり其處へござつ て、唐突の山佛に膽を潰すと申します。  其處を山續きの留りにして、向うへ降りる路は、又此の石段のやうなものではあ りません。わづかの間も九十九折の坂道、嶮しい上に、Mか石を入れたあとのある だけに、爪立つて飛々に這ひ下りなければなりませんが、此の坂の兩方に、五百體 千體と申す數ではない。それは/\數へ切れぬくらゐ、いづれも一尺、一尺五寸、 御丈三尺といふのはない、小さな石佛がすく/\並んで、最も長い年月、路傍へ轉 げたのも、倒れたのもあつたでありませうが、さすがに跨ぐものはないと見えます。 もたれなりにも櫛の齒のやうに揃つてあります。  是について、何かいはれのございましたことか、一々女の名と、亥年、午年、幾 歳、幾歳、年齡とが彫りつけてございましてな、何時の世にか、諸國の婦人たちが、 擧つて、心願を籠めたものでございませう。處で、雨露に黒髮は霜と消え、袖裾も 苔と變つて、影ばかり殘つたが、お面の細く尖つた處、以前は女體であつたらうな どといふ、いや女體の地藏といふはありませんが、扨て然う聞くと、なほ氣味が惡 いではございませんか。  えゝ、つかぬことを申したやうでありますが、客人の話について、些と考へまし た事がござる。客人は、それ、其の山路を行かれたので――此の觀音の御堂を離れ て、」 「成程、其の何んとも知れない、石像の處へ、」  と胸を伏せて顏を見る。 「いや/\、其處までではありません。唯其の山路へ、堂の左の、巖間を拔けて出 たものでございます。  トいふのが、手に取るやうに、囃の音が消えたからで。  直き其の谷間の村あたりで、騷いで居るやうに、トン/\と山腹へ響いたと申す のでありますから、一寸裏山へ廻りさへすれば、足許に瞰下ろされますやうな勘定 であつたので。客人は、高い處から見物をなさる氣でござつた。  入り口はまだ月のたよりがございます。樹の下を、草を分けて參りますと、處々 窓のやうに山が切れて、其處から、松葉掻、枝拾ひ、じねんじよ穿が谷へさして通 行する、下の村へ續いた路のある處が、彼方此方に幾干もございます。  それへ出ると、何處でも廣々と見えますので、最初左の濱庇、今度は右の茅の屋 根と、二三箇處、其切目へ出て、覗いたが、何處にも、祭禮らしい處はない。海は 明く、谷は煙つて。」        二十一 「けれども。其の囃子の音は、草一叢、樹立一畝出さへすれば、直き見えさうに聞 えますので。二足が三足、五足が十足になつて段々深く入るほど――此處まで來た のに見ないで歸るも殘惜い氣もする上に、何んだか、舊へ歸るより、前へ出る方が 路も明いかと思はれて、些と急足になると、路も大分上りになつて、ぐいと伸上る やうに、思ひ切つて眞暗な中を、草をBつて、身を退いて高い處へ。ぼんやり薄明 るく、地ならしがしてあつて、心持、墓地の繩張の中ででもあるやうな、平な丘の 上へ出ると、月は曇つて了つたか、それとも海へ落ちたかといふ、一方は今來た路 で向うは崕、谷か、それとも濱邊かは、判然せぬが、底一面に靄がかゝつて、其の 靄に、ぼうと遠方の火事のやうな色が映つて居て、篝でも燒いて居るかと、底澄ん で赤く見える。其の邊に、太鼓が聞える、笛も吹く、ワアといふ人聲がする。  如何にも賑かさうだが、さて何處とも分らぬ。客人は、其の朦朧とした頂に立つ て、境は接しても、美濃近江、人情も風俗も皆違ふ寢物語の里の祭禮を、此處で見 るかと思はれた、と申します。  其上、宵宮にしては些と賑か過ぎる、大方本祭の夜? それで人の出盛りが通り 過ぎた、餘程夜更らしい景色に視めて、しばらく茫然としてござつたさうな。  ト何んとなく、心寂しい。路も餘程歩行いたやうな氣がするので、うつとり草臥 れて、最う歸らうかと思ふ時、其の火氣を包んだ靄が、恁う風にでも動くかと覺え て、谷底から上へ、裾あがりに次第に色が濃うなつて、向うの山かけて映る工合が 直き目の前で燃して居る景色――尤も靄に包まれながら――  其處で、何か見極めたい氣もして、其の平地を眞直に行くと、まづ、それ、山の 腹が覗かれましたわ。  これはしたり! 祭禮は谷間の里からかけて、此處が其のとまりらしい。見た處 で、薄くなつて段々に下へ灯影が濃くなつて次第に賑かになつて居ます。  矢張同一やうな平な土で、客人のござる丘と、向うの丘との中に箕の形になつた 場所。  爪尖も辷らず、靜に安々と下りられた。  處が、箕の形の、一方はそれ祭禮に續く谷の路でございませう。其の谷の方に寄 つた疊なら八疊ばかり、油が廣く染んだ體に、草がすつぺりと禿げました。」  といひかけて、出家は瀬戸物の火鉢を、縁の方へ少しずらして、俯向いて手で疊 を仕切つた。 「これだけな、赤地の出た上へ、何か恁うぼんやり踞つたものがある。」  ト足を崩して兎角して膝に手を置いた。  思はず、外の方を見た散策子は、雲の稍軒端に近く迫るのを知つた。 「手を上げて招いたと言ひます――ゆつたりと――行くともなしに前へ出て、それ でも間二三間隔つて立停まつて、見ると、其の踞つたものは、顏も上げないで俯向 いたまゝ、股引やうのものを穿いて居る、草色の太い胡坐かいた膝の脇に、差置い た、拍子木を取つて、カチ/\と鳴らしたさうで、其の音が何者か齒を噛合はせる やうに響いたと言ひます。  然うすると、」 「はあ、はあ、」 「薄汚れた帆木綿めいた破穴だらけの幕が開いたて、」 「幕が、」 「然やう。向う山の腹へ引いてあつたが、矢張靄に見えて居たので、其ものの手に、 綱が引いてあつたとみえます、踞つたまゝで立ちもせんので。  窪んだ淺い横穴ぢや。大きかつたといひますよ。正面に幅一間ばかり、尤も、此 の邊には一寸々々然ういふのを見懸けます。脊戸に近い百姓屋などは、漬物桶を置 いたり、青物を活けて重寶がる。で、幕を開けたからには其れが舞臺で。」        二十二 「成程、然う思へば、舞臺の前に、木の葉がばら/\と散ばつた中へ交つて、投錢 が飛んで居たらしく見えたさうでございます。  幕が開いた――と、まあ、言ふ體でありますが、扨唯淺い、扁い、窪みだけで。 何んの飾つけも、道具だてもあるのではござらぬ。何か、身體もぞく/\して、餘 り見て居たくもなかつたさうだが、自分を見懸けて、はじめたものを、他に誰一人 居るではなし、今更歸るわけにもなりませんやうな羽目になつたとか言つて、懷中 の紙入に手を懸けながら、茫乎見て居たと申します。  また、陰氣な、濕つぽい音で、コツ/\と拍子木を打違へる。  矢張其のものの手から、づうと絲が繋がつて居たものらしい。舞臺の左右、山の 腹へ斜めにかゝつた、一幅の白い靄が同じく幕でございました。むら/\と兩方か ら舞臺際へ引寄せられると、煙が渦くやうに疊まれたと言ひます。  不細工ながら、窓のやうに、箱のやうに、黒い横穴が小さく一ツづゝ三十五十と 一側並べに仕切つてあつて、其の中に、ずらりと婦人が並んで居ました。  坐つたのもあり、立つたのもあり、片膝立てたじだらくな姿もある。緋の長襦袢 ばかりのもある。頬のあたりに血のたれて居るのもある。縛られて居るのもある、 一目見たが、それだけで、遠くの方は、小さくなつて、幽になつて、唯顏ばかり谷 間に白百合の咲いたやう。  慄然として、遁げもならない處へ、またコン/\と拍子木が鳴る。  すると貴下、谷の方へ續いた、其何番目かの仕切の中から、ふらりと外へ出て、 一人、小さな婦人の姿が、音もなく歩行いて來て、やがて其の舞臺へ上つたでござ いますが、其處へ來ると、並の大きさの、しかも、すらりとした脊丈になつて、し よんぼりした肩の處へ、恁う、頤をつけて、熟と客人の方を見向いた、其の美しさ!  正しく玉脇の御新姐で。」        二十三 「寢衣にぐる/\と扱帶を卷いて、霜のやうな跣足、其まゝ向うむきに、舞臺の上 へ、崩折れたやうに、ト膝を曲げる。  カンと木を入れます。  釘づけのやうになつて立窘んだ客人の脊後から、脊中を摺つて、づツと出たもの がある。  黒い影で。  見物が他にも居たかと思ふ、と然うではない。其の影が、よろ/\と舞臺へ出て、 御新姐と脊中合はせにぴつたり坐つた處で、此方を向いたでございませう、顏を見 ると自分です。」 「えゝ!」 「それが客人御自分なのでありました。  で、私へお話に、 (眞個なら、其處で死ななければならんのでした、)  と言つて歎息して、眞蒼になりましたつけ。  何うするか、見て居たかつたさうです。勿論、肉は躍り、血は湧いてな。  しばらくすると、其の自分が、稍身體を捻ぢ向けて、惚々と御新姐の後姿を見入 つたさうで、指の尖で、薄色の寢衣の上へ、恁う山形に引いて、下へ一ツ、△を書 いたでございますな、三角を。  見て居る胸はヒヤ/\として冷汗がびつしよりになる。  御新姐は唯首垂れて居るばかり。  今度は四角、□、を書きました。  其の男、即客人御自分が。  御新姐の膝にかけた指の尖が、わな/\と震へました……とな。  三度目に、○、圓いものを書いて、線の端がまとまる時、颯と地を拂つて空へ抉 るやうな風が吹くと、谷底の灯の影がすつきり冴えて、鮮かな薄紅梅。濱か、海の 色か、と見る耳許へ、ちやら/\と鳴つたのは、投げ錢と木の葉の摺れ合ふ音で、 くる/\と廻つた。  氣がつくと、四五人、山のやうに脊後から押被さつて、何時の間にか他に見物が 出來たて。  爾時、御新姐の顏の色は、こぼれかゝつた艷やかなおくれ毛を透いて、一入美し くなつたと思ふと、あの其の口許で莞爾として、うしろざまにたよ/\と、男の足 に脊をもたせて、膝を枕にすると、黒髮が、ずる/\と仰向いて、眞白な胸があら はれた。其の重みで男も倒れた、舞臺がぐん/\ずり下つて、はツと思ふと舊の土。  峰から谷底へかけて哄と聲がする。そこから夢中で駈け戻つて、蚊帳に寢た私に 縋りついて、 (水を下さい。)  と言うて起された、が、身體中疵だらけで、夜露にずぶ濡であります。  それから曉かけて、一切の懺悔話。  翌日は一日寢てござつた。午すぎに女中が二人ついて、此の御堂へ參詣なさつた 御新姐の姿を見て、私は慌てて、客人に知らさぬやう、暑いのに、貴下、此の障子 を閉切つたでございますよ。  以來、あの柱に、うたゝ寐の歌がありますので。  客人はあと二三日、石の唐櫃に籠つたやうに、我と我を、手足も縛るばかり、謹 んで引籠つてござつたし、私も亦油斷なく見張つて居たでございますが、貴下、聊 か目を離しました僅の隙に、何處か姿が見えなくなつて、木樵が來て、點燈頃、 (私、今、來がけに、彼處さ、蛇の矢倉で見かけたよ、)  と知らせました。  客人は又其晩のやうな芝居が見たくなつたのでございませう。  死骸は海で見つかりました。  蛇の矢倉と言ふのは、此の裏山の二ツ目の裾に、水のたまつた、むかしからある 横穴で、わツといふと、おう――と底知れず奧の方へ十里も廣がつて響きます。水 は海まで續いて居ると申傳へるでありますが、如何なものでございますかな。」  雨が二階家の方からかゝつて來た。音ばかりして草も濡らさず、裾があつて、路 を通ふやうである。美人の靈が誘はれたらう。雲の黒髮、桃色衣、菜種の上を蝶を 連れて、庭に來て、陽炎と並んで立つて、しめやかに窓を覗いた。                            (明治39年11月) ..........................................................................  *外字 「Dる」=あぶる      「Bり」=かなぐり       「E」=がん      「Aす」=みまはす     「Fいた」=みひらいた       「I」=とう       「K」=し     「Lいて」=ひらいて      「Mか」=なまじつか     「Bつて」=むしつて 注記 底本は『現代日本文學全集 第一四篇 泉鏡花集』(改造社・昭和3年)を    使用。適宜、『鏡花小説戲曲選・第五卷』(岩波書店 1994)を參照しまし た。版權侵害にはあたらないと考えますが、識者の方、判斷をお寄せいただ きたく存じます。        (1998.4.14 / 2000.12.10 改)                         蟻 (ant@muh.biglobe.ne.jp)