『春晝後刻』                             泉 鏡花        二十四  此雨は間もなく霽れて、庭も山も青き天鵝絨に蝶花の刺繍ある霞を落した。何ん の餘波やら、庵にも、座にも、袖にも、菜種の薫が染みたのである。  出家は、さて日が出口から、裏山の其の蛇の矢倉を案内しよう、と老實やかに勸 めたけれども、此の際、觀音の御堂の脊後へ通り越す心持はしなかつたので、挨拶 も後日を期して、散策子は、やがて庵を辭した。  差當り、出家の物語について、何んの思慮もなく、批評も出來ず、感想も陳べら れなかつたので、言はれた事、話されただけを、不殘鵜呑みにして、天窓から詰込 んで、胸が膨れるまでになつたから、獨り靜に歩行きながら、消化して胃の腑に落 ちつけようと思つたから。  對手も出家だから仔細はあるまい、(然やうなら)が些と唐突であつたかも知れ ぬ。  處で、石段を脊後にして、行手へ例の二階を置いて、吻と息をすると……、 「轉寐に……」  と先づ口の裏で云つて見て、小首を傾けた。杖が邪魔なので腕の處へ搖り上げて、 引包んだ其の袖ともに腕組をした。菜種の花道、幕の外の引込みには引立たない野 郎姿。雨上りで照々と日が射すのに、薄く一面にねんばりした足許、辷つて轉ばね ば可い。 「戀しき人を見てしより……夢てふものは、」  と一寸顏を上げて見ると、左の崕から椎の樹が横に出て居る――遠くから視める と、これが石段の根を仕切る緑なので、――庵室は最う右手の脊後になつた。  見たばかりで、すぐに又、 「夢と言へば、これ、自分も何んだか夢を見て居るやうだ。やがて目が覺めて、あ あ、轉寐だつたと思へば夢だが、此まゝ、覺めなければ夢ではなからう。何時か聞 いた事がある、狂人と眞人間は、唯時間の長短だけのもので、風が立つと時々波が 荒れるやうに、誰でも一寸々々は狂氣だけれど、直ぐ、凪ぎになつて、のたり/\ かなで濟む。もしそれが靜まらないと、浮世の波に乘つかつてる我々、ふら/\と 腦が搖れる、木靜まらんと欲すれども風やまずと來た日にや、船に醉ふ、其の浮世 の波に浮んだ船に醉ふのが、立處に狂人なんだと。  危險々々。  ト來た日にや夢も又同一だらう。目が覺めるから、夢だけれど、いつまでも覺め なけりや、夢ぢやあるまい。  夢になら戀人に逢へると極れば、こりや一層夢にして了つて、世間で、誰其は? と尋ねた時、はい、とか何んとか言つて、蝶々二つで、ひら/\なんぞは悟つたも のだ。  庵室の客人なんざ、今聞いたやうだと、夢てふものを頼み切りにしたのかな。」  と考へが道草の蝶に誘はれて、ふは/\と玉の緒が菜の花ぞひに伸びた處を、風 もないのに、颯とばかり、横合から雪の腕、緋の襟で、つと爪先を反らして足を蹈 伸ばした姿が、眞黒な馬に乘つて、蒼空を飜然と飛び、帽子の廂を掠めるばかり、 大波を乘つて、一跨ぎに紅の虹を躍り越えたものがある。  はたと、これに空想の前途を遮られて、驚いて心付くと、赤棟蛇のあとを過ぎて、 機を織る婦人の小家も通り越して居たのであつた。  音はと思ふに、きりはたりする聲は聞えず、山越えた停車場の笛太鼓、大きな時 計のセコンドの如く、胸に響いてトゝンと鳴る。  筋向ひの垣根の際に、此方を待ち受けたものらしい、鍬を杖いて立つて、莞爾つ いて、のつそりと親仁あり。 「はあ、もし今歸らせえますかね。」 「や、先刻は。」        二十五  其の莞爾々々の顏のまゝ、鍬を離した手を揉んで、 「何んともハイ御しんせつに言はつせえて下せえやして、お庇樣で、私、えれえ手 柄して禮を聞いたでござりやすよ。」 「別に迷惑にもならなかつたかい。」  と悠々として云つた時、少なからず風采が立上がつて見えた。勿論、對手は件の 親仁だけれど。 「迷惑處ではござりましねえ、かさね/\禮を言はれて、私大く難有がられました。」 「ぢや、むだにならなかつたかい、お前さんが始末をしたんだね。」 「竹ン尖で壓へつけてハイ、山の根つこさ藪の中へ棄てたでごぜえます。女中たち が殺すなと言ふけえ。」 「その方が心持が可い、命を取つたんだと、そんなにせずともの事を、私が訴人し たんだから、怨みがあれば、此方へ取付くかも分らずさ。」 「はゝはゝ、旦那樣の前だが、矢張お好きではねえでがすな。奧に居た女中は、蛇 がと聞いただけでアレソレ打騷いで戸障子へ當つただよ。  私先づ庭口から入つて、其處さ縁側で案内して、それから臺所口に行つて彼方此 方探索のした處、何が、お前樣御勘考さ違はねえ、湯殿の西の隅に、べいら/\舌 さあ吐いとるだ。  思つたより大うがした。  畜生め。われさ行水するだら蛙飛込む古池と云ふへ行けさ。化粧部屋覗きをつて 白粉つけてどうしるだい。白鷺にでも押惚れたかと、ぐいとなやして動かさねえ。 どうしべいな、長アくして思案のして居りや、遠くから足の尖を爪立つて、お殺し でない、打棄つておくれ、御新姐は病氣のせゐで物事氣にしてなんねえから、と女 中たちが口を揃へて云ふもんだでね、藝もねえ、殺生するにや當らねえでがすから、 藪疊へ潛らして退けました。  御新姐は、氣分が勝れねえとつて、二階に寢てござらしけえ。  今しがた小雨が降つて、お天氣が上ると、お前樣、雨よりは大きい紅色の露がぽ つたりぽつたりする、あの桃の木の下の許さ、脊戸口から御新姐が、紫色の蝙蝠傘 さして出てござつて、(爺やさん、今ほどは難有う。其の厭なものの居た事を、通 りがかりに知らして下すつたお方は、巖殿の方へおいでなすつたと云ふが、未だお 歸りになつた樣子はないかい。)ツて聞かしつた。 (どうだかね、私、内方へ參つたは些との間だし、雨に駈出しても來さつしやらね えもんだで、未だ歸らつしやらねえでごぜえませう。  それとも身輕でハイずん/\行かつせえたもんだで、山越しに名越の方さ出さつ しやつたかも知れましねえ、)言うたらばの。 (お見上げ申したら、よくお禮を申して下さいよ。)ツてよ。  其の溝さ飛越して、其路を、」  垣の外の此方と同一通筋。 「ハイぶうらり/\、谷戸の方へ、行かしつけえ。」  と言ひかけて身體ごと、此の巖殿から橿原へ出口の方へ振向いた。身の擧動が仰 山で、然も用ありげな素振だつたので、散策子もおなじく其方を。……歸途の渠に は恰も前途に當る。 「それ見えるでがさ。の、彼處さ土手の上にござらつしやる。」  錦の帶を解いた樣な、媚めかしい草の上、雨のあとの薄霞、山の裾に靉靆く中に 一張の紫大きさ月輪の如く、はた菫の花束に似たるあり。紫羅傘と書いていちはち の花、字の通りだと、それ美人の持物。  散策子は一目見て、早く既に其の霞の端の、ひた/\と來て膚に絡ふのを覺えた。  彼處と此方と、言ひ知らぬ、春の景色の繋がる中へ、蕨のやうな親仁の手、無骨 な指で指して、 「彼處さ、それ、傘の陰に憩んでござる。はゝはゝ、禮を聞かつせえ、待つてるだ に。」        二十六  横に落した紫の傘には、あの紫苑に來る、黄金色の昆蟲の翼の如き、煌々した日 の光が射込んで、草に輝くばかりに見える。  其の蔭から、しなやかな裳が、土手の翠を左右へ殘して、線もなしに、よろけ縞 のお召縮緬で、嬌態よく仕切つたが、油のやうにとろりとした、雨のあとの路との 間、あるかなしに、細い褄先が柔かくしつとりと、内端に掻込んだ足袋で留まつて、 其處から襦袢の友染が、豐かに膝まで捌かれた。雪駄は一ツ土に脱いで、片足はし なやかに、草に曲げて居るのである。  前を通らうとして、我にもあらず立淀んだ。散策子は、下衆儕と賭物して、鬼が 出る宇治橋の夕暮を、唯一騎、東へ打たする思がした。  恁く近づいた跫音は、件の紫の傘を小楯に、土手へかけて、悠然と朧に投げた、 艷にして凄い緋の袴に、小波寄する微な響さへ與へなかつたにもかゝはらず、此方 は一ツ胴震ひをして、立直つて、我知らず肩を聳やかすと、杖をぐいと振つて、九 字を切りかけて、束々と通つた。  路は、あはれ、鬼の脱いだ其の沓を跨がねばならぬほど狹いので、心から、一方 は海の方へ、一方は橿原の山里へ、一方は來し方の巖殿になる、久能谷の此の出口 は、恰も、ものの撞木の形。前は一面の麥畠。  正面に、青麥に對した時、散策子の面は恰も醉へるが如きものであつた。  南無三寶聲がかゝつた。それ、言はぬことではない。 「…………」  一散に遁げもならず、立停まつた渠は、馬の尾に油を塗つて置いて、鷲掴みの掌 を辷り拔けなんだを口惜く思つたらう。 「私。」  と振返つて、 「ですかい、」と言ひつつ一目見たのは、頭禿に齒豁なるものではなく、日の光射 す紫のかげを籠めた俤は、几帳に宿る月の影、雲の鬢、簪の星、丹花の唇、芙蓉の 眦、柳の腰を草に縋つて、鼓草の花に浮べる状、虚空にかゝつた裝である。  白魚のやうな指が、一寸、紫紺の半襟を引き合はせると、美しい瞳が動いて、 「失禮を……」  と唯莞爾する。 「はあ、」と言つた切、腰のまはり、遁路を見て置くのである。 「貴下お呼び留め申しまして、」  とふつくりとした胸を上げると、やゝ凭れかゝつて土手に寢るやうにして居た姿 を前へ。 「はあ、何、」  眞正直な顏をして、 「私ですか、」と空とぼける。 「貴下のやうなお姿だ、と聞きましてございます。先刻は、眞に御心配下さいまし て、」  徐ら、雪のやうな白足袋で、脱ぎ棄てた雪駄を引寄せた時、友染は一層はら/\ と、模樣の花が俤に立つて、ぱツと留南奇の薫がする。  美女は立直つて、 「お蔭樣で災難を、」  と襟首を見せてつむりを下げた。  爾時獨武者、杖をわきばさみ、兜を脱いで、 「えゝ、何んですかな、」と曖昧。  美女は親しげに笑ひかけて、 「ほゝゝ、私は最う災難と申します、災難ですわ、貴下。彼が座敷へでも入ります か、知らないで居て御覽なさいまし、當分家を明渡して、何處かへ參らなければな りませんの。眞個に然うなりましたら、どうしませう。お庇樣で助かりましてござ いますよ。難有う存じます。」 「それにしても、私と極めたのは、」  と思ふことが思はず口へ出た。  是は些と調子はづれだつたので、聞き返すやうに、 「えゝ、」        二十七 「先刻の、あの青大將の事なんでせう。それにしても、よく私だと云ふのが分りま したね、驚きました。」  と棄鞭の遁構へで、駒の頭を立直すと、なほ打笑み、 「そりや知れますわ。こんな田舎ですもの。而して御覽の通り、人通りのない處ぢ やありませんか。  貴下のやうな方の出入は、今朝ツからお一人しかありませんもの。丁と存じて居 りますよ。」 「では、あの爺さんにお聞きなすつて、」 「否、私ども石垣の前をお通りがかりの時、二階から拜みました。」 「ぢやあ、私が青大將を見た時に、」 「貴下のお姿が楯におなり下さいましたから、爾時も、厭なものを見ないで濟みま した。」  と少し打傾いて懷しさう。 「ですが、貴女、」とうつかりいふ、 「はい?」  と促すやうに言ひかけられて、ハタと行詰つたらしく、杖をコツ/\と瞬一ツ、 唇を引締めた。  追つかけて、 「何んでございますか、聞かして頂戴。」  と婉然とする。  慌て氣味に狼狽つきながら、 「貴女は、貴女は氣分が惡くつて寢ていらつしやるんだ、と云ふぢやありませんか。」 「あら、こんなに甲羅を干して居りますものを。」 「へい、」と、綱は目をFつて、あゝ、我ながらまづいことを言つた顏色。  美女は其の顏を差覗く風情して、瞳を斜めに衝と流しながら、華奢な掌を輕く頬 に當てると、紅がひらりと搦む、腕の雪を拂ふ音、さら/\と衣摺れして、 「眞個は、寢ていましたの……」 「何んですツて、」  と苦笑。 「でも爾時は寢て居やしませんの。貴下起きて居たんですよ。あら、」  と稍調子高に、 「何を言つてるんだか分らないわねえ。」  馴々しく云ふと、急に胸を反らして、すツきりとした耳許を見せながら、顏を反 向けて俯向いたが、其まゝ身體の平均を保つやうに、片足をうしろへ引いて、立直 つて、 「否、寢て居たんぢやなかつたんですけども、貴下のお姿を拜みますと、急に心持 が惡くなつて、それから寢たんです。」 「これは酷い、酷いよ、貴女は。」  棄て身に衝と寄り進んで、 「ぢや青大將の方が増だつたんだ。だのに、態々呼留めて、災難を免れたとまで事 を誇大にして、禮なんぞおつしやつて、元來、私は餘計なお世話だと思つて、御婦 人ばかりの御住居だと聞いたにつけても、愈々極が惡くつて、此處だつて、貴女、 こそ/\遁げて通らうとしたんぢやありませんか。それを大袈裟に禮を言つて、極 を惡がらせた上に、姿とは何事です。幽靈ぢやあるまいし、心持を惡くする姿と云 ふがありますか。圖體とか、状とか云ふものですよ。其の私の圖體を見て、心持が惡 くなつたは些と烈しい。それがために寢たは、殘酷ぢやありませんか。  要らんおせつかいを申上げたのが、見苦しかつたら然うおつしやい。此お關所を あやまつて通して頂く――勸進帳でも讀みませうか。それでいけなけりや仕方がな い。元の巖殿へ引返して、山越で出奔する分の事です。」  と逆寄せの決心で、然う言つたのをキッカケに、どかと土手の草へ腰をかけたつ もりの處、負けまい氣の、魔ものの顏を見詰めて居たので、横ざまに落しつける筈 の腰が据らず、床几を辷つて、ずるりと大地へ。 「あら、お危い。」  と云ふが早いか、眩いばかり目の前へ、霞を拔けた極彩色。さそくに友染の膝を 亂して、繕ひもなくはらりと折敷き、片手が蹈み拔いた下駄一ツ前壺を押して寄越 すと、扶け起すつもりであらう、片手が薄色の手巾ごと、ひらめいて芬と薫つて、 優しく男の脊にかゝつた。        二十八  南無觀世音大菩薩……助けさせたまへと、散策子は心の裏、陣備も身構もこれに て粉になる。 「お足袋が泥だらけになりました、直き其處でござんすから、一寸おいすがせ申し ませう。お脱ぎ遊ばせな。」  と指をかけようとする爪尖を、慌しく引込ませるを拍子に、體を引いて、今度は 大丈夫に、脊中を土手へ寢るばかり、ばたりと腰を懸ける。暖い草が、ちりげもと で赫とほてつて、汗びつしより、まつかな顏をして且つ目をきよろつかせながら、 「構はんです、構はんです、こんな足袋なんぞ。」  ヤレ又落語の前座が言ひさうなことを、とヒヤリとして、漸と瞳を定めて見ると、 美女は刎飛んだ杖を拾つて、しなやかに兩手でついて、悠々と立つて居る。  羽織なしの引かけ帶、ゆるやかな袷の着こなしが、いまの身じろぎで、片前下り に友染の紅匂ひこぼれて、水色縮緬の扱帶の端、やゝずり下つた風情さへ、杖には 似合はないだけ、恰も人質に取られた形――可哀や、お主の身がはりに、戀の重荷 でへし折れよう。 「眞個に濟みませんでした。」  又候先を越して、 「私、どうしたら可いでせう。」  と思ひ案ずる目を半ば閉ぢて、屈託らしく、盲目が歎息をするやうに、ものあは れな裝して、 「うつかり飛んだ事を申上げて、私、そんなつもりで言つたんぢやありませんわ。  貴下のお姿を見て、それから心持が惡くなりましたつて、言通りの事が、もし眞 個なら、どうして口へ出して言へますもんですか。貴下のお姿を見て、それから心 持が惡く……」  再び口の裏で繰返して見て、 「おほゝ、まあ、大概お察し遊ばして下さいましなね。」  と樂にさし寄つて、袖を土手へ敷いて凭れるやうにして並べた。春の草は、其肩 のあたりを翠に仕切つて、二人の裾は、足許なる麥畠に臨んだのである。 「然う云ふつもりで申上げたんでござんせんことは、よく分つてますぢやありませ んか。」 「はい、」 「ね、貴下、」 「はい、」  と無意味に合點して頷くと、未だ心が濟まぬらしく、 「言とがめをなすつてさ、眞個にお人が惡いよ。」  と異に搦む。  聊か辯ぜざるべからず、と横に見向いて、 「人の惡いのは貴女でせう。私は何も言とがめなんぞした覺えはない。心持が惡い とおつしやるからおつしやる通りに伺ひました。」 「そして、腹をお立てなすつたんですもの。」 「否、恐縮をしたまでです。」 「其處は貴下、お察し遊ばして下さる處ぢやありませんか。  言の綾もございますわ。朝顏の葉を御覽なさいまし、表はあんなに薄つぺらなも んですが、裏はふつくりして居りますもの……裏を聞いて下さいよ。」 「裏だと……お待ちなさいよ。」  えゝ、といきつぎに目を瞑つて、仰向いて一呼吸ついて、 「心持が惡くなつた反對なんだから、私の姿を見ると、それから心持が善くなつた ――事になる――可い加減になさい、馬鹿になすつて、」  と極めつける。但し笑ひながら。  清しい目で屹と見て、 「むづかしいのね? どう言へば恁うおつしやつて、貴下、弱いものをおいぢめ遊 ばすもんぢやないわ。私は煩つて居るんぢやありませんか。」  草に手をついて膝をずらし、 「お聞きなさいましよ、まあ、」  と恍惚したやうに笑を含む口許は、鐵漿をつけて居はしまいかと思はれるほど、 婀娜めいたものであつた。 「まあ、私に、戀しい懷しい方があるとしませうね。可うござんすか……」        二十九 「戀しい懷しい方があつて、そしてどうしても逢へないで、夜も寐られないほどに 思ひ詰めて、心も亂れれば氣も狂ひさうになつて居りますものが、せめて肖たお方 でもと思ふのに、此頃は恁うやつて此處等には東京からおいでなすつたらしいのも 見えません處へ、何年ぶりか、幾月越か、フト然うらしい、肖た姿をお見受け申し たとしましたら、貴下、」  と手許に丈のびた影のある、土筆の根を摘み試み、 「爾時は……、而して何んですか、切なくつて、あとで臥つたと申しますのに、爾 時は、どんな心持でと言つて可いのでございませうね。  矢張、あの、厭な心持になつて、と云ふほかはないではありませんか。それを申 したんでございますよ。」  一言もなく……しばらくして、 「ぢや、然う云ふ方がおあんなさるんですね、」と僅に一方へ切拔けようとした。 「御存じの癖に。」  と、伏兵大いに起る。 「えゝ、」 「御存じの癖に。」 「今お目にかゝつたばかり、お名も何も存じませんのに、どうしてそんな事が分り ます。」  うたゝ寐に戀しき人を見てしより、其の、みを、と云ふ名も知らぬではなかつた けれども、夢のいはれも聞きたさに。 「それでも、私が氣疾をして居ります事を御存じのやうでしたわ。先刻、」 「それは、何、あの畑打ちの爺さんが、蛇をつかまへに云つた時に、貴女はお二階 に、と言つて、一寸御樣子を漏らしただけです。それも唯御氣分が惡いとだけ。  私の形を見て、お心持が惡くなつたなんぞつて事は、些とも話しませんから、知 らう道理はないのです。但禮をおつしやるかも知れんと云ふから、其奴は困つたと 思ひましたけれども、此處を通らないぢや歸られませんもんですから。恁うと分つ たら穴へでも入るんだつけ。お目にかゝるのぢやなかつたんです。しかし私が知ら ないで、二階から御覽なすつただけは、そりや仕方がない。」 「まだ、あんな事をおつしやるよ。然うお疑ひなさるんなら申しませう。貴下、此 のまあ麗かな、樹も、草も、血があれば湧くんでせう。朱の色した日の光にほかほ かと、土も人膚のやうに暖うござんす。竹があつても暗くなく、花に陰もありませ ん。燃えるやうにちら/\咲いて、水へ散つても朱塗の杯になつてゆる/\流れま せう。海も眞蒼な酒のやうで、空は、」  と白い掌を、膝に仰向けて打仰ぎ、 「緑の油のやう。とろ/\と、曇もないのに淀んで居て、夢を見ないかと勸めるや うですわ。山の形も柔かな天鵝絨の、ふつくりした括枕に似て居ます。其方此方陽 炎や、絲遊がたきしめた濃いたきもののやうに靡くでせう。雲雀は鳴かうとして居 るんでせう。鶯が、遠くの方で、低い處で、此方にも里がある、樂しいよ、と鳴い て居ます。何不足のない、申分のない、目を瞑れば直ぐにうと/\と夢を見ますや うな、此の春の日中なんでございますがね、貴下、これをどうお考へなさいますえ。」 「どうと言つて、」  と言に連れられた春の其の日中から、瞳を美女の姿にかへした。 「貴下は、どんなお心持がなさいますえ、」 「…………」 「お樂みですか。」 「はあ、」 「お嬉しうございますか。」 「はあ、」 「お賑かでございますか。」 「貴女は?」 「私は心持が惡いんでございます、丁ど貴下のお姿を拜みました時のやうに、」  と言ひかけて吻と小さなといき、人質の彼の杖を、斜めに兩手で膝へ取つた。情 の海に棹す姿。思はず腕組をして熟と見る。        三十 「此の春の日の日中の心持を申しますのは、夢をお話しするやうで、何んとも口へ 出しては言へませんのね。何うでせう、此のしんとして寂しいことは。矢張、夢に 賑かな處を見るやうではござんすまいか。二歳か三歳ぐらゐの時に、乳母の脊中か ら見ました、祭禮の町のやうにも思はれます。  何爲か、秋の暮より今、此の方が心細いんですもの。それで居て汗が出ます、汗 ぢやなくつて恁う、あの、暖かさで、心を絞り出されるやうですわ。苦しくもなく、 切なくもなく、血を絞られるやうですわ。柔かな木の葉の尖で、骨を拔かれますや うではございませんか。こんな時には、肌が蕩けるのだつて言ひますが、私は何ん だか、水になつて、其の溶けるのが消えて行きさうで涙が出ます、涙だつて、悲し いんぢやありません、然うかと言つて嬉しいんでもありません。  あの貴下、叱られて出る涙と慰められて出る涙とござんすのね。此の春の日に出 ますのは、其の慰められて泣くんです。矢張悲しいんでせうかねえ。おなじ寂しさ でも、秋の暮のは自然が寂しいので、春の日の寂しいのは、人が寂しいのではあり ませんか。  あゝ遣つて、田圃にちらほら見えます人も、秋のだと、しつかりして、てん/\ が景色の寂しさに負けないやうに、張合を持つて居るんでせう。見た處でも、しよ んぼりした脚にも氣が入つて居るやうですけれど、今しがたは、すつかり魂を拔き 取られて、ふは/\浮き上つて、あのまゝ、鳥か、蝶々にでもなりさうですね。心 細いやうですね。  暖い、優しい、柔かな、すなほな風にさそはれて、鼓草の花が、ふつと、綿にな つて消えるやうに魂がなりさうなんですもの。極樂と云ふものが、アノ確に目に見 えて、而して死んで行くと同一心持なんでせう。  樂しいと知りつつも、情ない、心細い、頼りのない、悲しい事なんぢやありませ んか。  而して涙が出ますのは、悲しくつて泣くんでせうか、甘えて泣くんでせうかねえ。  私はずた/\に切られるやうで、胸を掻きむしられるやうで、そしてそれが痛く も痒くもなく、日當りへ桃の花が、はら/\とこぼれるやうで、長閑で、麗で、美 しくつて、其れで居て寂しくつて、雲のない空が頼りのないやうで、緑の野が砂原 のやうで、前世の事のやうで、目の前の事のやうで、心の内が言ひたくツて、焦ツ たくツて、口惜くツて、いら/\して、じり/\して、其くせぼツとして、うつと り地の底へ引込まれると申しますより、空へ抱き上げられる鹽梅の、何んとも言へ ない心持がして、それで寢ましたんですが、貴下、」  小雨が晴れて日の照るやう、忽ち麗なおもゝちして、 「恁う申しても矢張お氣に障りますか。貴下のお姿を見て、心持が惡くなつたと言 ひましたのを、未だ許しちや下さいませんか、おや、貴下何うなさいましたの。」  身動ぎもせず聞き澄んだ散策子の茫然とした目の前へ、紅白粉の烈しい流が眩い 日の光で渦いて、くる/\と廻つて居た。 「何んだか、私も變な心持になりました、あゝ、」  と掌で目を拂つて、 「で、其處でお休みになつて、」 「はあ、」 「夢でも御覽になりましたか。」  思はず口へ出したが、言ひ直した、餘り唐突と心付いて、 「然う云ふお心持でうたゝ寐でもしましたら、どんな夢を見るでせうな。」 「矢張、貴下のお姿を見ますわ。」 「えゝ」 「此處に恁うやつて居りますやうな。ほゝほゝ。」  と言ひ知らずあでやかなものである。 「いや、串戲はよして、其の貴女、戀しい、慕はしい、而してどうしても、最う逢 へない、とお言ひなすつた、其の方の事を御覽なさるでせうね。」 「其の貴下に肖た、」 「否さ、」  此處で顏を見合はせて、二人ともBつて居た草を同時に棄てた。 「成程。寂としたもんですね、どうでせう、此の閑さは……」  頂の松の中では、頻に目白が囀るのである。        三十一 「又此の橿原と云ふんですか、山の裾がすく/\出張つて、大きな怪物の土地の神 が海の方へ向つて、天地に開いた口の、奧齒へ苗代田麥畠などを、引銜へた形に見 えます。谷戸の方は、恁う見た處、何んの影もなく、春の日が行渡つて、些と曇が あればそれが霞のやうな、長閑な景色で居ながら、何んだか厭な心持の處ですね。」  美女は身を震はして、何故か嬉しさうに、 「あゝ、貴下も其の(厭な心持)をおしやいましたよ。ぢや、もう私も其のお話を いたしても差支へございませんのね。」 「可うございます。はゝゝはゝ。」  ト一寸更まつた容子をして、うしろ見られる趣で、其二階家の前から路が一畝り、 矮い藁屋の、屋根にも葉にも一面の、椿の花の紅の中へ入つて、菜畠へ纔に顯れ、 苗代田で又絶えて、遥かに山の裾の翠に添うて、濁つた灰汁の色をなして、ゆつた りと向うへ通じて、左右から突出た山でとまる。橿原の奧深く、蒸し上るやうに低 く霞の立つあたり、脊中合せが停車場で、其の腹へ笛太鼓の、異樣に響く音を籠め た。其處へ、遥かに瞳を通はせ、しばらく茫然とした風情であつた。 「然うですねえ、はじめは、まあ、心持、彼の邊からだらうと思ふんですわ、聲が 聞えて來ましたのは、」 「何んの聲です?」 「はあ、私が臥りまして、枕に髮をこすりつけて、悶えて、あせつて、焦れて、つ く/\口惜しくつて、情なくつて、身がしびれるやうな、骨が溶けるやうな、心持 で居た時でした。先刻の、あの雨の音、さあつと他愛なく軒へかゝつて通りました のが、丁ど彼處あたりから降り出して來たやうに、寢て居て思はれたのでございま す。  あの停車場の囃子の音に、何時か氣を取られて居て、それだからでせう。今でも 停車場の人ごみの上へだけは、細い雨がかゝつて居るやうに思はれますもの。未だ 何處にか雨氣が殘つて居りますなら、向うの霞の中でせうと思ひますよ。  と、其細い、幽な、空を通るかと思ふ雨の中に、圖太い、底力のある、そして、 さびのついた鹽辛聲を、腹の底から押出して、 (えゝ、えゝ、えゝ、伺ひます。お話はお馴染の東京世渡草、商人の假聲物眞似。 先づ神田邊の事でござりまして、えゝ、大家の店前にござります。夜のしら/\明 けに、小僧さんが門口を掃いて居りますると、納豆、納豆――)  と申して、情ない調子になつて、 (えゝ、お御酒を頂きまして聲が續きません、助けて遣つておくんなさい。)  と厭な聲が、流れ星のやうに、尾を曳いて響くんでございますの。  私は何んですか、悚然として寢床に足を縮めました。しばらくして、又其の(えゝ、 えゝ、)と云ふ變な聲が聞えるんです。今度は些と近くなつて。  それから段々あの橿原の家を向ひ合ひに、飛び/\に、千鳥にかけて一軒一軒、 何處でもおなじことを同一ところまで言つて、お錢をねだりますんでございますが ね、暖い、ねんばりした雨も、其の門附の足と一緒に、向うへ寄つたり、此方へよ つたり、ゆる/\歩行いて來ますやうです。  其の納豆納豆――と云ふのだの、東京と云ふのですの、店前だの、小僧が門口を 掃いて居る處だと申しますのが、何んだか懷しい、兩親の事や、生れました處なん ぞ、昔が思ひ出されまして、身體を煮られるやうな心持がして我慢が出來ないで、 掻卷の襟へ喰ひついて、しつかり胸を抱いて、そして恍惚となつて居りますと、や がて、些と強く雨が來て當ります時、内の門へ參つたのでございます。 (えゝ、えゝ、えゝ、)  と言ひ出すぢやございませんか。 (お話はお馴染の東京世渡草、商人の假聲物眞似。先づ神田邊の事でござりまして、 えゝ、大家の店さきでござります。夜のしら/\あけに、小僧さんが門口を掃いて 居りますと、納豆納豆――)  とだけ申して、 (えゝ、お御酒を頂きまして聲が續きません、助けて遣つておくんなさい。)  と一分一厘おなじことを、おなじ調子で云ふんですもの。私の門へ來ましたまで に、遠くから丁ど十三度聞いたのでございます。」        三十二 「女中が直ぐに出なかつたんです。 (ねえ、助けておくんなさいな、お御酒を頂いたもんだからね、聲が續かねえんで、 えへ、えへ、)  厭な咳なんぞして、 (遣つておくんなさいよ、飮み過ぎて切ねえんで、助けておくんなさい、お願えだ。)  と言つて獨言のやうに、貴下、 (遣り切ねえや、)ツて、いけ太々しい容子つたらないんですもの。其處らへ、べ ツべツ唾をしつかけて居さうですわ。  小錢の音をちやら/\とさして、女中が出さうにしましたから、 (光かい、光や、)  と呼んで、二階の上り口へ來ましたのを、押留めるやうに、床の中から、 (何んだね、)  と自分でも些と尖々しく言つたんです。 (門附でございます。) (藝人かい!) (はい、)  ツて吃驚して居ました。 (不可いよ、遣つちや不可ない。  藝人なら藝人らしく藝をして錢をお取り、と然うお言ひ。出來ないなら出來ない と言つて乞食をおし。なぜ又自分の藝が出來ないほど酒を呑んだ、と言つてお遣り。 いけ洒亞々々失禮ぢやないか。)  とむら/\として、どうしたんですか、じり/\胸が煮え返るやうで極めつけま すと、竊と足音を忍んで、光やは、二階を下りましたつけ。  お恥しうございますわ。  甲高かつたさうで、よく下まで聞えたと見えます。表二階に居たんですから。 (何んだつて、)  門口で喰つてかゝるやうな聲がしました。  枕をおさへて起上りますと、女中の聲で、御病氣なんだからと、こそ/\云ふの が聞えました。  嘲るやうに、 (病人なら病人らしく死ん了へ。治るもんなら治つたら可からう。何んだつて愚圖 ついて、煩つて居るんだ。)  と赭顏なのが白い齒を剥き出して云ふやうです。はあ、そんな心持がしましたの。 (おゝ、死んで見せようか、死ぬのが何も、)とつゝと立つと、ふら/\して床を 放れて倒れました。段へ、裾を投げ出して、欄干につかまつた時、雨がさつと暗く なつて、私はひとりで泣いたんです。 其れツ切、聲も聞えなくなつて、門附は何處へ參りましたか。雨も上つて、又明い 日が當りました。何んですかねえ、十文字に小兒を引脊負つて跣足で歩行いて居る、 四十恰好の、巖乘な、繪に描いた、赤鬼と言つた形のもののやうに、今恁うやつて お話をします内も考へられます。女中に聞いたのでもございませんのに――  又最う寢床へ倒れツ切になりませうかとも存じましたけれども、然うしたら氣で も違ひさうですから、ぶら/\日向へ出て來たんでございます。  否、はじめてお目にかゝりました貴下に、こんなお話を申上げまして、最う氣が 違つて居りますのかも分りませんが、」  と言ひかけて、心を籠めて見詰めたらしい、目の色は美しかつた。 「貴下、眞個に未來と云ふものはありますものでございませうか知ら。」 「…………」 「もしあるものと極りますなら。地獄でも極樂でも構ひません。逢ひたい人が其處 に居るんなら。さつさと其處へ行けば宜しいんですけれども、」  と土筆のたけの指白う、又うつゝなげに草を摘み、摘み、 「屹と然うと極りませんから、もしか、死んで其れツ切りになつては情ないんです もの。其くらゐなら、生きて居て思ひ惱んで、煩らつて、段々消えて行きます方が、 幾干か増だと思ひます。忘れないで、何時までも、何時までも、」  と言ひ/\拔き取つた草の葉をキリ/\と白齒で噛んだ。  トタンに慌しく、男の膝越に衝とのばした袖の色も、帶の影も、緑の中に濃くな つて、活々として蓮葉なものいひ。 「いけないわ、人の惡い。」  散策子は答へに窮して、實は草の上に位置も構はず投出された、オリイブ色の上 表紙に、とき色のリボンで封のある、ノオトブックを、つまさぐつて居たのを見た ので。        三十三 「此方へ下さいよ、厭ですよ。」  と端へかけた手を手帳に控へて、麥畠へ眞正面。話をわきへずらさうと、青天白 日に身構へつつ、 「歌がお出來なさいましたか。」 「ほゝほゝ、」  と唯笑ふ。 「繪をお描きになるんですか。」 「ほゝほゝ。」 「結構ですな、お樂しみですね、些と拜見いたしたいもんです。」  手を放したが、附着いた肩も退けないで、 「お見せ申しませうかね。」  あどけない状で笑ひながら、持直してぱら/\と男の帶のあたりへ開く。手帳の 枚頁は、此の人の手に恰も蝶の翼を重ねたやうであつたが、鉛筆で描いたのは……  一目見て散策子は蒼くなつた。  大小濃薄亂雜に、半ばかきさしたのもあり、歪んだのもあり、震へたのもあり、 やめたのもあるが、○と□△ばかり。 「ね、上手でせう。此處等の人達は、貴下、玉脇では、繪を描くと申しますとさ。 此の土手へ出ちや、何時までも恁うして居ますのに、唯居ては、谷戸口の番人のや うでをかしうござんすから、いつかツからはじめたんですわ。  大層評判が宜しうございますから……何ですよ、此頃に繪具を持出して、草の上 で風流の店びらきをしようと思ひます、大した寫生ぢやありませんか。  此の圓いのが海、此の三角が山、此の四角いのが田圃だと思へばそれでもようご ざんす。それから○い顏にして、□い胴にして△に坐つて居る、今戸燒の姉樣だと 思へばそれでも可うございます、袴を穿いた殿樣だと思へばそれでも可いでせう。  それから……水中に物あり、筆者に問へば知らずと答ふと、高慢な顏色をしても 可いんですし、名を知らない死んだ人の戒名だと思つて拜んでも可いんですよ。」  やう/\聲が出て、 「戒名、」  と口が利ける。 「何、何んと云ふんです。」 「四角院圓々三角居士と、」  いひながら土手に胸をつけて、袖を草に、太脛のあたりまで、友染を敷亂して、 すらりと片足片褄を泳がせながら、かう内へ掻込むやうにして、鉛筆ですら/\と 其の三體の祕密を記した。  テン/\カラ、テンカラと、耳許に太鼓の音。二人の外に人のない世ではない。 アノ椿の、燃え落ちるやうに、向うの茅屋へ、續いてぼた/\と溢れたと思ふと、 菜種の路を葉がくれに、眞黄色な花の上へ、ひらりと彩つて出たものがある。  茅屋の軒へ、鶏が二羽舞上つたのかと思つた。  二個の頭、獅子頭、高いのと低いのと、後になり先になり、縺れる、狂ふ、花す れ、葉ずれ、菜種に、と見るとやがて、足許から其方へ續く青麥の畠の端、玉脇の 門の前へ、出て來た連獅子。  汚れた萌黄の裁着に、泥草鞋の乾いた埃も、霞が麥にかゝるやう、志して何處へ 行く。早其の太鼓を打留めて、急足に近づいた。いづれも子獅子の角兵衞大小。小 さい方は八ツばかり、上は十三―四と見えたが、すぐに久能谷の出口を突切り、紅 白の牡丹の花、はつと俤に立つばかり、ひらりと前を行き過ぎる。 「お待ち一寸、」  と聲をかけて美女は起直つた。今の姿を其のまゝに、雪駄は獅子の蝶に飛ばして、 土手の草に横坐りになる。  ト獅子は紅の切を捌いて、二つとも、立つて頭を向けた。 「あゝ、あの、兒たち、お待ちなね。」 テン/\/\、(大きい方が)トンと當てると、太鼓の面に撥が飛んで、ぶるぶ ると細に躍る。 「アリヤ」  小獅子は路へ橋に反つた、のけ樣の頤ふつくりと、二かは目に紅を潮して、口許 の可愛らしい、色の白い兒であつた。        三十四 「おほゝゝ、大層勉強するわねえ、まあ、お待ちよ。あれさ、そんなに苦しい思ひ をして引くりかへらなくつても可いんだよ、可いんだよ。」  と壓へつけるやうに云ふと、ぴよいと立直つて頭の堆く大きく突出た、紅の花の 廂の下に、くるツとした目をFつて立つた。  ブル/\ツと、跡を引いて太鼓が止む。  美女は膝をずらしながら、帶に手をかけて、搖り上げたが、 「お待ちよ、今お錢を上るからね、」  手帳の紙へはしり書して、一枚手許へ引切つた、其のまゝ獅子をさし招いて、 「おいで/\、あゝ、お前ね、これを持つて、其の角の二階家へ行つて取つておい で。」  留守へ言ひつけた爲替と見える。  後馳せに散策子は袂へ手を突込んで、 「細いのならありますよ。」 「否、可うござんすよ、さあ、兄や、行つて來な。」  撥を片手で引つかむと、恐る/\差出した手を素疾く引込め、とさかをはらりと 振つて行く。 「さあ、お前此方へおいで、」  小さな方を膝許へ。  きよとんとして、ものも言はず、棒を呑んだ人形のやうな顏を,凝と見て、 「幾歳なの、」 「八歳でごぜえス。」 「母さんはないの、」 「角兵衞に、そんなものがあるもんか。」 「お前は知らないでもね、母樣の方は知つてるかも知れないよ、」  と衝と手を袴越に白くかける、とぐいと引寄せて、横抱きに抱くと、獅子頭はば くりと仰向けに地を拂つて、草鞋は高く反つた。鶏の羽の飾には、椰子の葉を吹く 風が渡る。 「貴下、」  と落着いて見返つて、 「私の兒かも知れないんですよ。」  トタンに、つるりと腕を辷つて、獅子は、倒にトンと返つて、ぶる/\と身體を ふつたが、けろりとして突立つた。 「えへゝゝゝゝ、」  此處へ勢よく兄獅子が引返して、 「頂いたい、頂いたい。」  二つばかり天窓を掉つたが、小さい方の脊中を突いて、テンと又撥を當てる。 「可いよ、そんなことをしなくつても、」  と裳をずりおろすやうにして止めた顏と、未だ掴んだまゝの大きな銀貨とを互ひ に見較べ、二個ともとぼんとする。時に朱盆の口を開いて、眼を輝すものは何。 「其のかはり、ことづけたいものがあるんだよ、待つておくれ。」  と其の○□△を落書の餘白へ、鉛筆を眞直に取つてすら/\と春の水の靡くさま に走らした假名は、かくれもなく、散策子に讀得られた。     君とまたみるめおひせば四方の海の           水の底をもかつき見てまし  散策子は思はず海の方を屹と見た。波は平かである。青麥につゞく紺青の、水平 線上雪一山。  富士の影が渚を打つて、ひた/\と薄く被さる、藍色の西洋館の棟高く、二三羽 鳩が羽をのして、ゆるく手巾を掉り動かす状であつた。  小さく疊んで、幼い方の手に其の(ことづけ)を渡すと、ふツくりした頤で、合 點々々をすると見えたが、いきなり二階家の方へ行かうとした。  使を頼まれたと思つたらしい。 「おい、其方へ行くんぢやない。」  と立入つたが聲を懸けた。  美女は莞爾して、 「唯持つて行つてくれれば可いの、何處へツて當はないの。落したら其處でよし、 失くしたら其れツ切で可いんだから……唯心持だけなんだから……」 「ぢや、唯持つて行きや可いのかね、奧さん、」  と聞いて頷くのを見て、年紀上だけに心得顏で、危つかしさうに仰向いて吃驚し た風で居る幼い方の、獅子頭を脊後へ引いて、 「こん中へ入れとくだア、奴、大事に持ツとんねえよ。」  獅子が並んでお辭儀をすると、すた/\と駈け出した。後白波に海の方、紅の母 衣翩飜として、青麥の根に霞み行く。        三十五  さて半時ばかりの後、散策子の姿は、一人、彼處から鳩の舞ふのを見た、濱邊の 藍色の西洋館の傍なる、砂山の上に顯れた。  其處へ來ると、浪打際までも行かないで、太く草臥れた状で、ぐツたりと先づ足 を投げて腰を卸す。どれ、貴女のために(ことづけ)の行方を見屆けませう。連獅 子のあとを追つて、と云ふのをしほに、未だ我儘が言ひ足りず、話相手の欲しかつ たらしい美女に辭して、袂を分つたが、獅子の飛ぶのに足の續くわけはない。  一先づ歸宅して寐轉ばうと思つたのであるが、久能谷を離れて街道を見ると、人 の瀬を造つて、停車場へ押懸ける夥しさ。中には最う此處等から假聲をつかつて行 く壯佼がある、淺黄の襦袢を膚脱で行く女房がある、其の演劇の恐ろしさ。大江山 の段か何か知らず、迚も町へは寄附かれたものではない。  で、路と一緒に、人通の横を切つて、田圃を拔けて來たのである。  正面にくぎり正しい、雪白な霞を召した山の女王のましますばかり。見渡す限り 海の色。濱に引上げた船や、畚や、馬秣のやうに散ばつたかじめの如き、いづれも 海に對して、我は顏をするのではないから、固より馴れた目を遮りはせぬ。  且つ人一人居なければ、眞晝の樣な月夜とも想はれよう。長閑さはしかし野にも 山にも増つて、あらゆる白砂の俤は、暖い霧に似て居る。  鳩は蒼空を舞ふのである。ゆつたりした浪にも誘はれず、風にも乘らず、同一處 を――其の友は館の中に、こと/\と塒を蹈んで、くゝと啼く。  人は恁う云ふ處に、恁うして居ても、胸の雲霧の霽れぬ事は、寐られぬ衾と相違 はない。  徒らに砂を握れば、くぼみもせず、高くもならず、他愛なくほろ/\と崩れると、 又傍からもり添へる。水を掴むやうなもので、搜ればはら/\とたゞ貝が出る。  渚には敷滿ちたが、何んにも見えない處でも、纔に砂を分ければ貝がある。未だ 此の他に、何が住んで居ようも知れぬ。手の屆く近い所が然うである。  水の底を搜したら、渠がためにこがれ死をしたと言ふ、久能谷の庵室の客も、其 處に健在であらうも知れぬ。  否、健在ならばと云ふ心で、君と其みるめおひせば四方の海の、水の底へも潛ら うと、(ことづけ)をしたのであらう。  此の歌は平安朝に艷名一世を壓した、田かりける童に襖をかりて、あをかりしよ り思ひそめてき、とあこがれた情に感じて、奧へと言ひて呼び入れけるとなむ…… 名媛の作と思ふ。  言ふまでもないが、手帳に此をしるした人は、御堂の柱に、うたゝ寐の歌を落書 したとおなじ玉脇の妻、みを子である。  深く考ふるまでもなく、庵の客と玉脇の妻との間には、不可思議の感應で、夢の 契があつたらしい。  男は眞先に世間外に、はた世間のあるのを知つて、空想をして實現せしむがため に、身を以つて直ちに幽冥に趣いたもののやうであるが、婦人は未だ半信半疑で居 るのは、それとなく胸中の鬱悶を漏らした、未來があるものと定り、靈魂の行末が 極つたら、直ぐにあとを追はうと言つた、言の端にも顯れて居た。  唯其有耶無耶であるために、男のあとを追ひもならず、生長らへる效もないので。  そゞろに門附を怪しんで、冥土の使のやうに感じた如きは幾分か心が亂れて居る。 意氣張づくで死んで見せように到つては、益々惱亂のほどが思ひ遣られる。  又一面から見れば、門附が談話の中に、神田邊の店で、江戸紫の夜あけがた、小 僧が門を掃いて居る、納豆の聲がした……のは、其の人が生涯の東雲頃であつたか も知れぬ。――やがて暴風雨となつたが――  兎に角、(ことづけ)は何うならう。玉脇の妻は、以て未來の有無を占はうとし たらしかつたに――頭陀袋にも納めず、帶にもつけず、袂にも入れず、角兵衞が其 の獅子頭の中に、封じて去つたのも氣懸りになる。爲替してきらめくものを掴ませ て、のツつ反ツつの苦患をみせない、上花主のために、商賣冥利、隨一大切な處へ、 偶然受取つて行つたのであらうけれども。  あれがもし、鳥にでも攫はれたら、思ふ人は虚空にあり、と信じて、夫人は羽化 して飛ぶであらうか。いや/\羊が食ふまでも、角兵衞は再び引返して其音信は傳 へまい。  從つて砂を崩せば、從つて手にたまつた、色々の貝殼にフト目を留めて、     君とまたみる目おひせば四方の海の……  と我にもあらず口ずさんだ。  更に答へぬ。  もし又うつせ貝が、大いなる水の心を語り得るなら、渚に敷いた、いさゝ貝の花 吹雪は、いつも私語を絶えせぬだらうに。されば幼兒が拾つても、われらが砂から 掘出しても、這個ものいはぬは同一である。  小貝を其處で捨てた。  而して横ざまに砂に倒れた。腰の下はすぐになだれたけれども、辷り落ちても埋 れはせぬ。  しばらくして、其の半眼に閉ぢた目は、斜めに鳴鶴ケ岬まで線を引いて、其の半 ばと思ふ點へ、ひら/\と燃え立つやうな、不知火にはつきり覺めた。  とそれは獅子頭の緋の母衣であつた。  二人とも出て來た。濱は鳴鶴ケ岬から、小坪の崕まで、人影一ツ見えぬ處へ。  停車場に演劇がある、町も村も引つぷるつて誰が角兵衞に取合はう。あはれ人の 中のぼうふらのやうな忙しい稼業の兒たち、今日はおのづから閑なのである。  二人は此處でも後になり先になり、脚絆の足を入れ違ひに、頭を組んで白浪を被 ぐばかり浪打際を歩行いたが、やがて其の大きい方は、五六尺渚を放れて、日影の 如く散亂れた、かじめの中へ、草鞋を突出して休んだ。  小獅子は一層活發に、衝と浪を追ふ、颯と追はれる。其光景、ひとへに人の兒の 戲れるやうには見えず、嘗て孤兒院の兒が此處に來て、一種の監督の下に、遊んだ のを見たが、それとひとつで、浮世の浪に揉み立てられるかといぢらしい。但其の 頭の獅子が怒り狂つて、たけり戰ふ勢である。  勝では可い!  ト草鞋を脱いで、跣足になつて横歩行をしはじめた。あしを濡らして遊んで居る。  大きい方は仰向けに母衣を敷いて、膝を小さな山形に寢た。  磯を横ツ飛の時は、其の草鞋を脱いだばかりであつたが、やがて脚絆を取つて、 膝まで入つて、靜かに立つて居たと思ふと、引返して袴を脱いで、今度は衣類をま くつて腰までつかつて、二三度密と潮をはねたが、又ちよこ/\と取つて返して、 頭を刎退け、衣類を脱いで、丸裸になつて一文字に飛込んだ。陽氣はそれでも可か つたが、泳ぎは知らぬ兒と見える。唯勢よく、水を逆に刎ね返した。手でなぐつて、 足で蹈むを、海水は稻妻のやうに幼兒を包んで其の左右へ飛んだ。――雫ばかりの 音もせず――獅子はひとへに嬰兒になつた、白光は頭を撫で、緑波は胸を抱いた。 何等の寵兒ぞ、天地の大きな盥で産湯を浴びるよ。  散策子はむくと起きて、ひそかに其の幸福を祝するのであつた。  あとで聞くと、小兒心にもあまりの嬉しさに、此一幅の春の海に對して、報恩の 志であつたといふ。一旦出て、濱へ上つて、寢た獅子の肩の處へしやがんで居たが、 對手が起返ると、濡れた身體に、頭だけ取つて獅子を被いだ。  それから更に水に入つた。些と出過ぎたと思ふほど、分けられた波の脚は、二線 長く廣く尾を引いて、小獅子の姿は伊豆の岬に、ちよと小さな點になつた。  濱に居るのが胡坐かいたと思ふと、テン、テン、テンテンツゝテンテンテン、波 に丁と打込む太鼓、油のやうな海面へ、綾を流して、響くと同時に、水の中に立つ たのが、一曲、頭を倒に。  これに眩めいたものであらう、H呀忌はし、よみぢの(ことづけ)を籠めたる獅 子を、と見る内に、幼兒は見えなくなつた。  未だ浮ばぬ。  太鼓が止んで、濱なるは棒立ちになつた。  砂山を慌しく一文字に駈けて、此方が近いた時、どうしたのか、脱ぎ捨てた袴、 着物、脚絆、海草の乾びた状の、あらゆる記念と一緒に、太鼓も泥草鞋も一まとめ に引かゝへて、大きな渠は、砂煙を上げて町の方へ一散に遁げたのである。  波はのたりと打つ。  ハヤ二三人駈けて來たが、いづれも高聲の大笑ひ、 「馬鹿な奴だ。」 「馬鹿野郎。」  ポク/\と來た巡査に、散策子が、縋りつくやうにして、一言いふと、 「角兵衞が、はゝゝ、然うぢやさうで。」  死骸は其の日終日見當らなかつたが、翌日しら/\あけの引潮に、去年の夏、庵 室の客が溺れたとおなじ鳴鶴ケ岬の岩に上つた時は二人であつた。顏が玉のやうな 乳房にくツついて、緋母衣がびつしより、其雪の腕にからんで、一人は美にして艷 であつた。玉脇の妻は靈魂の行方が分つたのであらう。  然らば、といつて、土手の下で、別れ際に、やゝ遠ざかつて、見返つた時――其 紫の深張を帶のあたりで横にして、少し打傾いて、黒髮の頭おもげに見送つて居た 姿を忘れぬ。どんなに潮に亂れたらう。渚の砂は、崩しても、積もる、くぼめば、 たまる、音もせぬ。たゞ美しい骨が出る。貝の色は、日の紅、渚の雪、浪の緑。                            (明治39年12月) ..........................................................................  *外字 「Fつて」=みはつて      「Bつて」=むしつて        「H」=あ 注記 底本は『現代日本文學全集 第一四篇 泉鏡花集』(改造社・昭和3年)を    使用。適宜、『鏡花小説戲曲選・第五卷』(岩波書店 1994)を參照しまし た。版權侵害にはあたらないと考えますが、識者の方、判斷をお寄せいただ きたく存じます。         (1998.5.8/ 2000.12.10 改)                         蟻 (ant@muh.biglobe.ne.jp)