『文学部唯野教授』を読む - 小説固有の批評性


――小説を読むという<読者の体験>を、講義を聴く受講生という<登場人物の体験>と混同させるのは、作者のトリックです。――


五行要約
・『文学部唯野教授』は読者殺しの小説です
・批評理論の講義はこの小説を進行させるための餌
・読者は受講生という名の登場人物に変容させられる
・続編の超虚構は予めこの本編の中に織り込まれている
・これは小説独自の批評性が追究されたメタフィクション


 窓の向こうは一面の雪野原。はて、今は真夏なのに。だが何のことはない、よく見るとそれは壁に描かれたスーパーリアルな窓の絵だった。筒井康隆の『文学部唯野教授』は、まるでそんな騙し絵のような小説です。そもそも小説が人物の行為を描く時、ふつうは適度な省略をほどこすものですが、これをなんの省略もせずに描いてみせたらどうなるでしょう。たとえば英文学教授の日常の行為を描くときに、ばっさり削って、

なにを血迷ったか、その日唯野は実に真剣な講義をした。

というたった一行ですますことだってできるわけです。しかしその講義のシーンを一切の省略なしに、したがって極度に饒舌なものとして描いたとしたら、読者はどんな反応をするでしょうか。人の悪い作家、筒井康隆はそんな発想からスーパーリアルなトリックをしかけます。

 一切の省略なしに描くと言いましたが、人間の行為を描くのに言葉で完璧にコピーできるのは「言葉を話す行為」だけです。だから主人公の職業は必ずしも大学教授である必要はなく、アナウンサーであっても落語家であってもちっとも構いません。なんなら言葉が使える「ただの人」でも構わないのです。けれども筒井は唯野仁を文学部教授にしなければならなかった。これにはやはり重大な意味があるわけです。唯野氏が英文学の教授であり、彼のおこなう講義の科目が批評理論であるとき、では何が起きるのか。読者の危機です。

 とりあえず批評理論らしきものがとり扱われているこのような小説を読むということは、単に文学一般についての我々の姿勢が問われるだけではなく、読者がいま現に読んでいる『唯野』というこの小説への批評的態度そのものが問われることでもあります。批評という言い方が大仰ならば、読み方が問われている、と言い換えてもいいでしょう。同じことです。『唯野』を批評理論の解説書として読むような、よくある読み方の是非もまた問われているということです。いっぽう、批評理論の講義を読ませられる読者は、この時、虚構の講義室の中で唯野氏の講義を聴く受講生のひとりに居ながらにして変容させられてもいるのです。講義の部分を飛ばし読みにでもしないかぎり、このことに否も応もありません。つまりここにおいて筒井康隆は(次にかさねて述べるように)読者を力ずくで受講生にしてしまい、そうすることで小説『文学部唯野教授』への批評的態度を奪いさるという事態をひきおこすわけです。批評が求められながら同時に奪われる、このような奇妙な事態は二重拘束(ダブルバインド)といってもよいでしょう。読者の危機と断言するゆえんです。

 筒井康隆が仕掛けた罠、それは講義の場面になるたびにこれが小説であることを忘却させることです。リアリズムのひとでもない作者が、たぶんシニカルな白目をしてリアリズムの手法を拝借しているのでしょう。『唯野』の中の講義とは、つまるところ文学作品の「読み」に関するものなのですが、他でもない「読み」に関する講義を読むまさにその時に、読者は小説の読者であることから別の存在へと暴力的に書き変えられてしまいます。小説の中の一登場人物となって、唯野教授の講義室の片隅にひっそりと座るあなたや私……。そう、自覚のないまま、受講生という名の<虚構内存在>に成り下がる読者、というわけです。いや自分に限ってそのようなことは絶対にありえない、と言い切るためには、これがどんな小説なのかを暴き立てるか、さもなくばこの小説を読むのを即刻やめるか、ふたつにひとつの命懸けの選択をしなければなりません。

補足:作中人物となったという自覚があるとき、その読者は<虚構内存在>になります。そういう自覚がないのが<虚構内存在>で、実存哲学のいわゆるダス・マン=世人に相当します。
 以下『朝のガスパール』(新潮文庫 P.83)より引用
「あのう、それじゃわたしも、フィクションの中の登場人物なんですか」
「そう、虚構内存在だ。そして、今、自分が虚構内存在であると知った以上は虚構内存在ということになる」

『近代日本の批評 II 』(講談社文芸文庫)の中で柄谷行人は『唯野』に反アカデミズムを見ています。柄谷ともあろう人が凡庸なことを言うものです。あの筒井康隆が大学を舞台に小説を書けば、どのみちそんな雰囲気のドタバタになるに決まっているではありませんか。これはもう筒井の生理的な体臭のようなものであって、ロラン・バルトが言う意味での文体レベルのものにすぎないのです。『唯野』がやっていることはその程度のものではなく、読者を読者ならざる者に変えること、人間から人間性を奪うように読者から読者性を奪うこと、すなわち読者を殺すこと、これなのです。唯野教授の講義について、柄谷はそのレベルの低さを指摘しています。しかしすでにお気づきのように、講義の内容自体に大した意味はありません。WIKIにあるマクガフィンの親戚みたいなもの(小説を進行させるための口実・エサ)と思ってください。詮ずるところ、リアリズムの人として柄谷行人もまた罠にはまったというだけのことです。

 かつて柳瀬尚紀は、超虚構の講義が予告されたまま『唯野』の続編はついに実現しなかったことを、筒井康隆との対談(『突然変異幻語対談』河出文庫)で残念がっていました。何を残念がることがありましょうか。脚注つきで批評理論をやさしく解説するそぶりだけは過剰に示しておきながら、その実、「読み」をめぐる過酷な試練に読者を突き落とす小説となっている『文学部唯野教授』は、まさに「読み」をめぐる小説であるがゆえに超虚構なのであり、超虚構の講義の予告をしたまま、黙ってこの小説そのものを差し出すという、狡猾な自己言及性においてもまた超虚構なのです。ほのめかされた続編は最初からこの中に織り込まれています。『文学部唯野教授のサブ・テキスト』という書物は存在しますが、これが続編でないことは誰もが知っています。そんなものではなく、こちらの本編の中に続編を発見させるという、そういう自己言及的な構造をこの作品は持っているわけです。『唯野』が抱え込んでいる小説的な欲望を探し当てるとするならば、それはみずからが超虚構として機能することより他にないでしょう。

 筒井のような作家が超虚構の理論をご親切に教えてくれるなどと虫のよいことを考えてはいけません。アンドレ・ブルトンにならってこう言っておきましょうか。筒井康隆は悪意においてシュールレアリストである、と。小説を読むという<読者の体験>を、講義を聴く受講生という<登場人物の体験>と混同させるのは、作者のトリックです。講義というかたちで超虚構を語るのではなく、講義の場面自体が実際に超虚構として機能している、そんな現場に読者を立ち会わせること(読者の体験)、筒井ならではの強烈な毒はあるものの、小説がとりうる方法として、これはごく真っ当なものではないでしょうか。

 どこかはもう忘れましたが、インターネット上には、『文学部唯野教授』に出てくる理論のひとつひとつをつぶさに注釈してくれるサイトがあります。書き手は大学の先生です。理論への愛はあるのかもしれませんが、小説への愛という一点において、論外というしかありません。いや、みずから俎上に載せている批評理論のうちのどれかを援用して『唯野』を解読してみようという気配もないので、そもそも理論への愛にしてからが疑がわしいものです。批評理論の批評性ではなく、小説固有の批評性がここで徹頭徹尾追究されていることなど夢想だにしないらしいこのような大学教師の姿勢は、あらかじめ『唯野』の恰好の餌食となっています。その意味ではここに反アカデミズムを読み取ることができるかもしれません。しかしそれは形式を読ませるというこの小説のありようにおいてそうなのであって、柄谷行人のリアリズムの読み方から出てくるしかない反アカデミズムなるものの陳腐さとは徹底して無縁であり、より本質的であるというべきでしょう。

 この小説は、そこに描かれた大学教授の腐敗ぶりばかりが話題になって、メタフィクション(虚構性の前景化=超虚構)としての側面が語られることあまりに少なく、そのため、とても不幸な作品となってしまいました。不可避的なことながら、日本の読者の、リアリズム一辺倒の読みの実態が照らし出される結果ともなっているのです。唯野教授のおかげで批評理論とはどういうものか知ることができるという「意見」もありますが、それで小説の読み方が以前と比べて少しは変わったのでしょうか。むしろこのような意見こそ読者がリアリズムという立ち位置から1ミリも引っ越しできてない証拠のように見えます。リアリズムでもいいじゃないか、という人もいるでしょう。多数派ですね。ただ、『文学部唯野教授』のような小説に立ち向かうにはそれでは無力なんじゃないか、という拙文のような少数「異見」も、あるにはあるのです。

 筒井康隆は『唯野』より10年ほど前に『大いなる助走』(文春文庫)という、文壇を舞台にしたドタバタ小説を書いています。『唯野』の学内政治のドタバタの部分は、実はかたちを変えた『大いなる助走』なのです。唯野教授自身、ペンネームを使って小説を書いている作家でもあるので、『大いなる助走』に描かれた文壇との密かな連接を見てとることができるのですが、とにかく10年も前の古いパーツを持ってきて、この新しい小説に組み込んだ形になっているわけです。古いからといって、どうこう言うのではありません。ただ、くりかえされる大学教授の愚行を、自分だけは安全圏内に身を置いたつもりで笑って見ていたはずの読者が、古いドタバタ小説に自足したまま、いつしか虚構の中の講義室に取り込まれ、いいように支配されてしまう存在として、逆に哄笑を浴びせられているのだということに、そろそろ気がついてもよいのではないかと言いたいのです。この哄笑は黒々とした笑いであって、パロディ特有のあの牧歌的でさえある軽い笑いはすでにここにはありません。たしかに『虚人たち』(中公文庫)よりもメタフィクションらしさは控えめで、『原始人』(文春文庫)所収の「読者罵倒」にくらべれば読者へのサディズムもほぼ完璧に隠されています。しかし、ひと皮むけば『唯野』が顕わすのは容赦のない過激な正体です。

 ときおり文学理論が好きなひとたちによって、テリー・イーグルトンの『文学とは何か ― 現代批評理論への招待』(岩波書店)という書物と『唯野』が比較検討されたりもするのですが、素朴な元ネタ探しやモデル探しを超えるほどのものを見せてくれたひとがどれだけいたでしょうか。批評理論の講義にしても学内政治のドタバタ騒動にしても、超虚構による批評を成り立たせるべく、それぞれの役割を粛々と果たしているにすぎません。批評の対象である小説が逆に批評にたいして罠をしかけているというのに、骨董品の鑑定でもするかのように斜め上から『唯野』を劣化コピーとして退けてオリジナル(元ネタ)を称揚する時、(小説を小説として読む気があるのかは不明ながら)理論好きであることだけは明白な彼らの<小説観>の貧しさが露呈しています。そういえば唯野先生が書いたとされる『海霧』という小説は、筒井のどの小説がモデルなのかという問いを見かけたこともありました。主人公のモデルは作者自身だとでも思っているのでしょうか。どんなに新しい理論で自分を飾りたててみても、日本の批評が、モデル探しというクイズまがいの答え探しをお家芸とするリアリズムから自由になるのは、なかなか容易なことではないようです。かりに唯野氏の文学論を実作によって検証しようと『海霧』に裏付けを求めたとしても、そんな小説は誰にも読むことができないようになっています。まるで「海霧(ガス)」のように掴み所がなく、答えは「皆無」、読者はどこまでもはぐらかされることになるでしょう。

 ページを開けば、なにやら「読み」の理論をやさしく教えてくれるらしい小説が眼の前に。はて、この作者はこんなに親切だったろうか。いやいや、仔細に読み終えてみると、それは用意周到な読者殺しの小説だった。筒井康隆の『文学部唯野教授』はそんな書物のかたちをした凶器です。なにもわざと奇をてらった言い方をしているわけではありません。この作品が執筆されたのは『フェミニズム殺人事件』(集英社文庫)や『ロートレック荘事件』(新潮文庫)などで筒井が殺人事件を扱っていた時期と重なっています。読者罵倒の作家が本当に読者を殺してみたくなったとしても、なんの不思議もないではありませんか。あるいはまた、作品をテクスト空間へと解き放とうとするバルト流のテクスト理論がその必然として<作者の死>を夢みて以来、作品に君臨する作者の特権的な地位がおびやかされているという状況もありました。作家の側から<読者の死>をもくろんで反撃にうって出ることなど、だから、しごく当然のふるまいであったといえるでしょう。反撃の方法は、批評理論の講義の場面を描くのに、スーパーがつくほど極端にまで推し進められたスーパーリアリズムをもってすること。そうすることによって、「読み」について高度に意識的なひとたちまでもが隠し持つ従順なリアリズムを暴き出し、日本の批評の底の浅さに哄笑を浴びせかけてみせた。それがこの用意周到な小説にしてメタフィクションの意味であり意義であるのです。

1998.06.27, 2010.02.22[debug]



雑記帖より

1998.06.25
 通勤電車でのできごと。途中の駅で50代くらいの男と女が話をしながら乗り込んできた。ひとりは私の右に、もうひとりは私の左に座った。車内にはその時他に乗客がいなかったので、知り合いらしいのに変わった座り方をするやつらだとはちょっと思った。ガランとした車内で3人が固まって座っている姿はかなりヘンだが、そのままいつもどおりの優雅な読書を続ける私でした。
 ところがそのふたり、話の続きをおっぱじめたのです、私というものを間に挟んで。おいおい。読書を妨害された私が即座に立ちあがって別の車両に逃げ込んだのは勿論だが、まったく、なにを考えておるとですか。
 その時読んでいたのは『近代日本の批評 II 』という文庫本でした。今ごろこんな本を読む自分も恥かしいが、この中で筒井康隆の『文学部唯野教授』について柄谷行人が言ってることも、ふんぞり返ったその言い方も、少々恥かしいことだという感想をもちました。いずれそのことについて書くつもりです。

柄谷 むしろ嫌なのは、ある種の言説がいまだに反アカデミズムでやろうとしていることなんですよ。アカデミズムがなければ反アカデミズムもない。この前筒井康隆の『文学部唯野教授』を読んだけど、英文学者なんてものは昔からバカにきまっているので、アカデミズムもくそもないですよ。諷刺にも値しない。そして、ここに出てくる唯野教授の講義がまたおよそくだらない。アメリカの教授にはこういうのがいるけど、それはもう批評がたんに死んでしまったという証拠ですよ。(『近代日本の批評 II 』 講談社文芸文庫 P.228)

1998.06.27
 「『文学部唯野教授』を読む」を書く。

1998.07.01
 6年前に『文学部唯野教授』を読んで小説の中の教室というものの意味を考えた時、最初に思い浮かんだのはフローベールの『ボヴァリー夫人』でした。冒頭が教室のシーンで始まるこの小説は「ぼくら」の視点から語り出されます。教室とは、それへの思いは人それぞれあるにしても、とにかく誰もが知っている親密な空間であって、ここで読者の視点は「ぼくら」の視点に重ね合わされるわけです。このことは読者を小説空間へすんなりと導きいれる誘惑装置となっているのではないかと思ったのでした。そして『唯野』の中の講義室もまた、読者を誘い込むひとつの罠として機能しているのではないかと。
 私の昔話は措くとして、この『ボヴァリー夫人』という小説は「ぼくら」の視点による語りがほんの数ページで消えてなくなり、以後は三人称主語で語られるという特徴をもつことで有名です。この転換は意図的になされたものです。そういったことを含め『ボヴァリー夫人』をやさしく読み解いた本が今年の3月に出ました。
 『恋愛小説のレトリック』(工藤庸子 東京大学出版会 ¥2600 )、おすすめです。


 佐藤和雄(蟻) / 泉鏡花を読む