勝五郎再生記聞
平田篤胤・Kaoru編
文政五年(1822年)十一月のことである。
武蔵国多摩郡中野村の百姓、源蔵に勝五郎という息子があった。
八歳になる勝五郎は、姉ふさ、兄乙次郎と田のほとりで遊んでいたとき、ふと兄に向かって
「兄さまは生まれる前はどこの誰の子で、こちらの家へ生まれて来たの?」と聞いた。
兄はそれを聞いて、「?。。そんなことは知らねぇよ。」というと勝五郎はまた姉に向かって同じように問いかけた。
ふさは答えて「どこかの誰の子だったのが、また生まれて来たなんて、どうしてわかるの?
おかしなことを聞くのねぇ。」とあざけるのを勝五郎はどうも納得できないようすで
「それなら、姉さまは生まれる先のことは知らないの?」といった。
ふさは「それならあんたは知ってるのかい?」ときくと勝五郎は
「おいらはよく知っているよ。もとは程窪村(程久保)の久兵衛という人の子で藤蔵といったんだ。」
姉はとても怪しんでそれならこの事を父母に告げるというと
勝五郎はひどくわびて親たちにはけして言うなと泣いて悲しんだので
「そうなら言わずにおきましょう。ただし悪いことをして言うことをきかないときはこのことを告げるわよ。」
といってその場はそれで終わったのである。
その後、兄弟喧嘩をする折々に、あのことを告げるわよといえばすぐに止めたので
両親、祖母もこれをきいて怪しんでふさに問いただしたけれども口をつぐんで言わず
さてはどんな悪いことをしたのかと心配で、こっそりふさを責めたてると
ふさもやむを得ずありのままに語ったのであった。
両親、祖母も不審におもって勝五郎をいろいろなだめすかしては尋ねて
しぶしぶと語りだしたところによると
「おいらはもと程窪村の久兵衛の子で母の名前はおしづといい
小さい時に久兵衛は死んでその後に半四郎というひとが来て父となりとても可愛がって育ててくれたけれども
おいらは六歳になったときに死んでその後この家の母さんのお腹に入って生まれたんだよ。」
けれども子供のあどけない言葉であまりにも怪しい物語なので
容易にとりあげることでもないと思って相手にしないでおいた。
さて、母親のせいは四歳になる娘に乳を飲ませるために勝五郎を祖母のつやに預けて
夜ごと添い寝してもらっていたが
ある夜のこと、勝五郎は「程窪の半四郎の家へ連れて行ってくれ、あちらの両親にも逢いたい」と言うのを
つやは怪しいことだと思い相手にしないで置いたが、その後も夜な夜な同じように行きたがるので
「それならここへ生まれ来る始めから詳しく話してごらん。」といろいろ問いただしてみると
あどけない言葉ながら、それまでのいきさつを詳しく語って
「父さん母さんの他には誰にも言わないで」と何度もくり返したのであった。
勝五郎が言うには、「前世のことは四歳ころまではよく覚えていたけどしだいに忘れてしまった。
死ぬほどの病ではなかったのに薬を飲めなかったので死んでしまったんだ。」
「息が絶えたときには何の苦しみもなかったけど、そのあと時々苦しいことがあって
その後はすこしも苦しくなくなった。
体が桶の中へ強く押し入れられると、自分は飛び出してその傍らにいて
山に葬られるのに行く時は白く覆った逗子の上に乗って行った。
その桶を穴へ落とし入れたときその音の響はとても心にこたえて、今でもよく覚えてる。
僧たちがお経を読んでも、そんなものは自分には何の役にも立たなかったので
いやになって家に帰って机の上にいたんだけど、家の人に声をかけて話しても聞こえていないようすだった。
すると白髪を長く垂らして黒い着物を着た翁がきて、こちらへおいでと誘うので
ついていくと何処かわからないが段々に高くて綺麗な芝原に行ってそこで遊んでいた。
花がいっぱい咲いているところで遊んだ時は、枝を折ろうとしたら
小さなカラスがでてきてひどくおどかすのでとても怖かった。
またあちらこちら遊んで歩くと、我が家で親たちが話すことも聞えて
僧がお経を読む声も聞えたけれども、それは憎らしく思うだけだった。
食物を供えたものは食うことはできないものの、中でも温かなものはその湯気の香りでうまいと思った。
七月には庭火をたくので家へ帰ったときには団子など供えてあった。
そんなふうにしてしばらく過していたある時、その翁といっしょにある家の向かいを通ると
翁は今の家を指さして、あの家に入って生まれなさいと言った。
そう教えられるままに翁と別れてその家の庭の柿の木の下にたたずんで
三日ほどようすを伺ってから窓の穴から家の中に入って、さらにかまどのそばに三日ほどいた。
そのとき母親が家を離れどこか遠くへ行く事を、父親と相談しているのを聞いた。
後日わかったことによると家が貧しいので母親が江戸へ奉公に行く相談をしていたのだった。
奉公に行った後で懐妊したことに気づいて、また家にもどったのである。そして勝五郎が生まれた。
さて勝五郎は母親のお腹へ入ったのだったが母親がつわりで苦しいときには外に出て
母親のそばによりそっていたりした。生まれたときは何にも苦しくはなかった。
いろんなことを四つ、五つになるまでは良く覚えていたのがしだいに忘れてしまった。」と言うのであった。
祖母はその話を聞いてますます怪しいことよと思い。ある時年寄りの仲間が集うところで
「程窪村で久兵衛というひとがいるのを知っている方はおられますか?」と聞いてみると
ひとりが「わしは知らんのだがその村に親戚がいるので問い合わせてみましょう。
それにしてもなぜそんなことを尋ねられるのかな?」というのを
祖母もとうとう黙っているわけにもいかず。勝五郎のことを話したのである。
そのうちに正月の七日になって程窪村からある老人が訪ねて来て
「わしは程窪の半四郎とは親しくしております。久兵衛は十五年前に無くなって
その妻の後夫になったのが半四郎といいます。
このごろひとづてに久兵衛の子で六歳で亡くなった藤蔵が、ここの家に生まれ変わったと聞いて
半四郎は驚きあまりにも不思議な話で、問うてみたいことがあったので
まずはわしを遣わしたというわけです。」
そうして話をいろいろと語ってお互いに奇妙なことであると怪しみつつ老人は帰っていった。
するとこの話はついに多くの人の知るところとなって見に来るひともあり
勝五郎が外にでると人々は珍しがって、程窪小僧などとあだ名をつけて囃したてたりしたので
恥ずかしがってその後は外にも出ず、父母に「だから人には言わないでといったのに」と恨みがましく云った。
かくして勝五郎は、半四郎の家へますます行きたがるようになり
また夜通し泣いていたのを夜明けにそのわけを聞いてみると、覚えていないといったりするようになった。
それがしばしば続いたものだから祖母は勝五郎に詫びて、これは半四郎のもとへ行きたいと思いつめたせいだと。
これがたとえ空言だとしても、男ならともかく老女が連れて行くのであれば人もそう嘲る事もないでしょう。
父親の源蔵に、どうか連れて行かせてくれというと、「そうかもしれぬ。どうかそうしてくだされ。」
正月の二十日になって祖母は勝五郎を一里半ばかり離れた程窪村に連れていった。
「この家かい?あそこの家かい?」というと勝五郎はまだ先だよと言いながら先に立っていくうちに
「この家だよ!」とある家に駆けこんだので祖母もつづいて入っていった。
まず主の名を問うと「半四郎です。」妻の名を問えば「しずです。」という。
半四郎夫婦は、かつてひとづてに聞いたことはあったものの、祖母の語る物語を聞いて
あやしみ、また悲しみの涙に沈み、勝五郎を抱き上げてつくづくと顔をみつめて
亡くなった藤蔵が六歳のときの面ざしによく似ているといった。
勝五郎は抱かれながら向かいの煙草屋の屋根を指さして「前はあのような屋根はなかったよ。
あの木もなかった。」などど云うのを皆そのとおりであったから、皆驚いたのであった。
半四郎の家の親族も寄ってきていた中に久兵衛の妹の乳母がいて、「久兵衛にさえ似てますよ。」
と涙を流して泣いた。
さてその日は中野村に帰ったが、勝五郎がその後も程窪へ行きたい、久兵衛の墓参りをさせてほしいというのを
源蔵はそのうちにと日を延ばしていたが二十七日になって半四郎が源蔵のもとへやってきた。
お近づきにとのことであったが勝五郎に程窪へ行かないかというと
久兵衛の墓参りをしますと悦んで半四郎とともに連れていってもらい、夕方には思いを遂げて帰ってきた。
かくしてその後、暇あるときには父に連れられて半四郎のところに行くようになり
それからは親戚として親しくつきあうようになったということである。