新国立劇場「オテロ」

 ロイヤルオペラの立派な演出と舞台に、実力のある歌手をそろえて、良心的価格で「オテロ」が観れるのだから、キャストの見た目を批評するのは筋違いであるし失礼である。そうとは分かっていても、舞台の奥の方のバルコニーにデズデーモナが姿を見せた時、合唱陣などの向こうの一番奥にいるのに一番大きく見えたのには「今日の公演は音楽に浸ろう」と思わずにはいられなかった。そしてバルコニーが崩れ落ちるのではという心配に至り、大道具の設計の重要性も音楽を聴きながら再認識してしまった。実際、デズデーモナのマッツァリーアは、もう少し美しく貴賓のある雰囲気がほしかった。しかし、見た目についてはイアーゴのポンスも同じで、こちらは舞台でも映像でもよく知っているので登場前から覚悟はしていたのだが、やはりもう少し若くて狡猾な雰囲気があれば良かった。と、出し抜けに筋違いの批評をしてみたが、気になる点はこれだけであとは公演のすべてが良かった。マッツァリーアは歌も演技も良かったし、ポンスはさすがに舞台上での貫禄と存在感は抜群である。オテロのボガチョフも、昨年のドン・ホセよりは良くて、出だしの朗々さがほんのちょっと物足りなかったが、幕が進むごとにオテロになりきっていた。

 舞台と演出は映像でも残っているロイヤルオペラのモシンスキー演出。評価が高いだけあって、イアーゴの扱いもオテロの苦悶もとてもよくあらわされていて、非常にわかりやすい。ヴェルディの音楽によく合った、すっきりした舞台である。ただ、私個人的には、こんなにいい演出でいいキャストでも、「オテロ」はなかなか感動できる作品ではない。音楽重視の聴き方をしてしまう。どのあたりに私の人生と共感させたらいいのかがまだ見つかっていない。私の聴き込み方がまだ不十分なのだろうけど、一発で目が覚めるような演出で観てみたい。(むしろヴェネツィア領キプロスにこだわらない方が、本質を浮かび上がらせるのでは、とも思ったりする。)

 最後に、最近ピットに入る東京フィルがいい。もちろん指揮者(今回はイタリアオペラでは無条件に信頼できる菊池彦典)の技量が最大の要因だろうけど、昨年ぐらいまでより良く響いているように思う。前回の「ボエーム」でもそう感じたことで、以前のサイクルでは新星日響の担当だが、あきらかにそれとは違う深い響きをしている。東京フィルの合併の効果が良い方向で現れてきだしたのか、あるいは少々うがった憶測をすれば安定収入源へのN響の参入に危機感があるのか。どちらにしても違う要因でも、聴かせてもらう方にすればいいことである。

(2003年6月15日 新国立劇場)

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