新国立劇場「外套」

 この公演を初めて知った時、まず神田慶一の指揮と粟國淳の演出という、若手の最左翼と最右翼のような取り合わせに興味を持ち、更にその調理の材料がプッチーニの「外套」ということであれば、私個人的に外せない公演であると感じた。正直に言って、神田慶一の手掛ける公演も好きだし、粟國淳の演出も好きなのだが、好きな方向が違って、公演に出かける時の期待感も方向が違う。神田さんの時は何かひとクセあって考えさせられることを期待するし、粟國さんの時は細部まで安心して観ていられるイタリアオペラを期待する。その二人が小劇場で短い「外套」一作だけを取り上げて上演するのだから、どういう展開になるのだろう。ただ神田さんの場合は、指揮と同時に演出することもあるし、自作を上演することもあるように、公演にトータルにかかわってくる場合が多い。そういう意味では粟國さんの正攻法の演出が入り込んでくる分、粟國色が強くなってくるのか。

 そういう期待で小劇場に入った途端、すでにガッチリ組まれているセットを目の当たりにして、これはどちらの色も入っているようだと、すぐに感じられた。小劇場には大きすぎる船のセットは、どこが物語の舞台なのかを一目で正しく伝えてくれる。細部までリアルなのは粟國さんの常道だ。そういう意味では正攻法である。しかし、そのセットの置かれている様子は正攻法ではない。セットを囲むようにL字型に客席が配され、オーケストラは舞台奥に陣取っている。よく見れば絡みついたロープも意味ありげだ。通常のオペラ公演ではないという臭いもプンプンしてくる。

 果たして、実際の上演は極めてまっとうな「外套」であった。それでいて、極めて演劇的な「外套」でもあった。観ていると、そもそも「外套」自体がそういう作品だったのでは、と思えてくる。三部作の一幕目としてであればもう少し様子が違ってくるのだろうが、「外套」単体だと今回のこの形態がとても良く効果を出している。客席に囲まれた舞台での緊迫した演技が、全く奇を衒わない演出でありながら、何か新しいプッチーニを体験しているような気持ちになってくる。

 神田さんの指揮も、暗くなりがちなこの作品から、プッチーニらしい美しさがよく出されていて、とても良かった。

 ただ客席の反応としては、「外套」だけで終わって冬の家路につくのは、なんだか気が滅入る、というような顔も多かった。

(2004年2月7日 新国立劇場小劇場)

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