新国立劇場「友人フリッツ」

 平凡な話なのに、誰もが共感する話ではない。あらすじは、独身主義の40男が若い娘と結婚する話、と一言で言い切れてしまう。感動的な波乱もない。マスカーニの音楽に支えられていなければ、舞台で観るほどのものでもない。

 こういう作品の演出はとてつもなく難しいだろうと思う。作品の本質がどこにあるのか、(あるいはあるのかないのか)分からないので、どこに演出の主眼を置いたらいいのであろうか。あまりに平凡すぎて、時代や場所の設定をいじっても、さほど様子は変わらないだろうし。こうなると、演出家や指揮者が新たな意味付けを作品にこじつけて上演しないと、感動的な舞台にはならないと思われる。しかし、今回の舞台はそういうこともなく、作品本来が持っている良さを最大限に引き出しているだけに終わっているように感じられた。もちろん、上演頻度が稀な作品を上演するのだから、正攻法の上演とはいえるだろうし、そういう意味では決して満足できない演出でもなかった。作品の限界を認識できるということもこの際大切なことかもしれない。

 そうだとしても、一点気になることがある。言っていいのかどうかわからないが、言ってしまいたい。それはフリッツが見た目に40代の冴えないオヤジそのものなのである。確かに設定としては正しい。決して間違ってはいない。しかし、若い娘が惹かれるような雰囲気ではないのだ。現代的な感覚では、40歳の独身男性はもっとスマートなセンスがあるはずである。そういう男に若い娘が惚れたと聞いても、何の不思議もない。でも、なんでこんな男にこんな若い娘が?、と納得できない場合もある。この度の舞台はまさしくそうであった。これが「ボエーム」であったり「メリー・ウィドウ」であったのなら、作品そのものに波乱と感動が含まれているから、多少のことは目をつぶっていられるのだけど、「友人フリッツ」に関しては、ストーリーがないので致命的になってしまう。

 前回の「外套」に引き続き、オーケストラは舞台の奥に置かれていた。しかし、マスカーニの美しい音楽は、オーケストラの響きにあるのだから、できれば前に出してもらって、音楽をもっと楽しみたかった。舞台と客席の緊密感といっても、「外套」では活きていたが、「友人フリッツ」ではその必要もなかったのではないだろうか。

 まあ、作品を知る上では十分満足のできる公演ではあった。さくらんぼの似合う40男でないとこの作品はビジュアル的に成立しない、ということもよく分かった。

(2004年6月12日 新国立劇場小劇場)

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