新国立劇場「ファルスタッフ」
ジョナサン・ミラーの演出について−
ジョナサン・ミラーは私の大好きな演出家のひとりであるが、その理由を端的に言えば、人物の動作が現代的でおもしろいところにある。
ミラーは、映像でも残っている、イングリッシュ・ナショナル・オペラのニューヨーク・マフィアに移した「リゴレット」が以前は有名だったので、それだけしか知らないと、設定読み変えが得意な演出家であるかと誤解してしまう。だが、ミラーの演出は時代と場所を変えることではなくて、時代と場所に固執しないということなのである。今回の「ファルスタッフ」の演出だって、時代は変えずに、場所だけイギリスからオランダに変えている。当時の家屋の雰囲気を伝える資料がオランダ絵画だけだから、という理由らしいが、実際のところ、その変更によって何かが大きく変わるということはない。極端に言えば、日本で上演するにあたって、今の日本人で17世紀のイギリスとオランダの違いが分かる人なんて、そうそういるものではないと思う。要するに、実質的に、この変更は大きな意味を持たないということである。
ミラーのおもしろさは、そんなところにあるのではなくて、動きが現代的なのである。それは、ウィーン来日公演ででも紹介された「フィガロの結婚」によく現れている。一見すると時代も場所も変わっているところはないのに、スザンナや伯爵夫人の動きは、絶対に当時ではありえないような、しかし現代人にしてみればごく普通の動きをしているのである。それは今回の公演プログラムの冒頭でのミラーの文章に、「新宿中央公園に寝泊りする人、劇場の食堂で昼食をとる人、そうしたさまざまな人の行動を常に観察し、そこから人間の行動の興味深いところを学びとり、演出に反映させるのです」と語っているところからも実感できる。そこではミラー自ら、ガーター亭の主人の行動を例に出しているが、もっと軽い行動、例えばフェントンが抜き足差し足で逃げていったり、籠の中にファルスタッフが隠れているのを発見した召使いが俄かに信じられない時にポリポリと頭を掻くなど、そういった現代人に分かりやすい行動を端役までとっているのである。そうすることによって、たとえ設定がどうであったって、舞台が過去の芸術から現代の楽しみに変わっているのである。
ちなみに第2幕の最後で、洗濯籠の中にファルスタッフが隠れていながらフォードたちがつい立を取り囲む場面は、展開を知り尽くしていればそれまでのところ、今回は召使いのひとりだけ籠の中の存在に気付かせていた。これは絶妙なアイデアで、作品を知っていればテンポよく進むだけのところに、喜劇的な(それも現代感覚での)楽しさが付加されて、一級の冴えた演出であった。
ダン・エッティンガーの指揮について−
実は「ファルスタッフ」は、本来、演出よりも指揮のほうが大切にされる作品だと思う。その点、今回の舞台は演出家と名だたるキャストに押されて、指揮者に期待する割合がいつもの「ファルスタッフ」より小さくなってしまったが、いざ音楽が始まってしまうとやはり指揮者の影響も大きい。エッティンガーは緩急を使い分けていたが、時折あからさまにゆっくりと指揮をとることがあって、多分違和感を覚える人も多かったのではと思われる。本人の説明では言葉が聞き取れるようにということらしいが、早口のテンポのよさが一部で損なわれたと感じさせても仕方がないほどであった。ただ、そんなにゆっくりテンポをとっても、意外と全体感が崩れずまとまっているのは、ヴェルディの音楽の構成がしっかりしているからなのであろう。極端にゆっくりな中、たったひとつの音だけとっても生き生きとしている。ヴェルディのこの構成の強さを熟知した上で、これほど緩急のある指揮を選んだとすれば、それも指揮者の力量の証明だと思う。
作品について−
最近「ファルスタッフ」で気になるのは、所詮アリーチェもメグもおばさんではないかということである。娘が結婚するようなおばさんの話である。ところが実際の舞台で、アリーチェとナンネッタに親子の年齢差が感じられることがあまりない。ここのところ「ファルスタッフ」では、そのあたりのことが気になっている。気になりだした自分がなぜだか怖いので、これ以上考察しないことにする。
(2004年6月27日 新国立劇場)
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