日本オペラ協会・鹿児島オペラ協会「ミスター・シンデレラ」

 ポップス調が主体のオペレッタ作品である。作曲者自身はミュージカルではなくオペラだと宣言しているので、オペレッタという言い方をしても否定されてしまうかもしれないが、これは現代作品では珍しく、ドタバタ喜劇としてはしっかりと構成された成功作である。現代作品は表現自体が深刻になりがちで、「今」の問題を芸術作品として表現しようとすれば、そうならざるを得ない面もあると思う。ところがこの作品は、奥底にあるテーマ自体はやはり「今」の問題であり、深刻で根深いものでありながら、台本も音楽もそれを喜劇としてまとめきっているのである。まとめきっているというのは、その表面的なドタバタに終わらず、奥底に存在する問題も明確に表現して、しかも表面のドタバタが上すべりしていないのである。

 冒頭は前奏どころか音楽もなく、いきなり台詞で開始する。その設定はマンションの部屋の中、起床した妻がテレビのスイッチを入れるシーンから。(例え方が乏しくて申し訳ないのだが、新喜劇の始まる様子と同じなのである。)

 妻は大学で蜂の研究、夫はミジンコの研究をしていて、子供なし。妻が家に持ち帰っていた女王蜂の性ホルモンを、夫がドリンク剤と間違えて飲んだところ、女になったり男に戻ったり変化するというのがストーリーの骨子。

 これに夫の両親との嫁姑問題、ダンディな独身学部長への妻の恋心などが絡む。夫が女になったり男に戻ったりするのは、干潮と満潮の時刻。実は開演前から砂浜の波の音が会場に流れていて潮の満ち引きを暗示していたし、開幕冒頭の妻がスイッチを入れたテレビにも、さりげなく天気予報の干満潮の情報を流していた。そして最後に変化する時の満潮の時刻が深夜12時、即ちシンデレラということである。

 ドタバタ喜劇でありながら、この作品を単純なドタバタで終わらせていない最大の要因が、夫が女に変化しているところをメゾ・ソプラノの役としているところにある。ここで男がそのまま女役を演じていれば、それこそ表面的な喜劇であって、その奥にメッセージを含むことはできない。男の女装というおかしさなんかでなく、ひとりの人間の中の別人格ということで、男と女を別役にしているのである。第一幕の幕切れは、真っ暗な部屋の中で鏡を前にして、男と女が同時に登場し、ひとりの中でそれぞれの良さを認め合う。そしてひとりの中の男と女が静かに抱き合いキスするシーンは、あまりに美しく涙してしまった。

 また、喜劇的なおもしろさを深くしている要因としては、夫の両親である、一見頑固そうな老夫婦が、実際保守的な台詞を言いながら、常にコミカルに行動していることろにあった。ふつうのオペラであれば、偏屈な敵役として処理されそうなところを、軽快な役柄に仕立ててしまっている。

 音楽も前述のようにポップス調が多い中、状況に応じてきっちり締めている。また、「フィガロ」「魔笛」「ファルスタッフ」のパロディと分かるシーンもあるし、当然といえば当然だが鹿児島のメロディも使用している。

 今回の演奏も演出も、最後には感動して涙を流してしまうほど、作品の良さを出していたが、これはもっといろんな演奏や演出ができそうな作品である。違うプロダクションでの上演も楽しみである。

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 数年前に鹿児島で「ミスター・シンデレラ」が初演されると知った時、何だか分からないタイトルに、ぜひとも観てみたいなと思ったものの、さすがに鹿児島まで出かけるパワーはなかった。それが、早くも東京で上演されると聞いて、私は発売前にチケットを押さえた。

 そもそも日本人の作品も現代の作品も好きなのだが、地方オペラのオリジナル作品の場合、どうしても地元の民話や地元の偉人を主題にしたものが多くなってしまう。歴史ものといっても日本史を動かすぐらいの人物や話であればまだいいが、それほどのものでもない題材のことが多い。これだと、相当ストーリーに手を入れて普遍性のある話にしないと、他の街での再演は難しく、地元で何回か上演するだけに終わってしまう。特に、地元賛歌を歌い上げる作品は、他での上演をあらかじめ否定しているようなものである。

 この「ミスター・シンデレラ」の台本作者も作曲者も言っている通り、地方オペラだからといって、その地方の昔話に題材を求めても現代の生きた作品にはならないのである。作曲者はオーケストラにキモノは似合わない、とまで言い切っている。私は、現代に通じる普遍的メッセージが表現できれば昔話でも構わないと思うが、よっぽど作り込まないと難しいと思う。

 そういう意味で、この作品冒頭の、どこにでもあるマンションの一室の朝の風景は象徴的である。そういうシーンにこそ、今の私たちの問題が潜んでいるのあって、それを表現するのが芸術であるし、それを地方のオペラだからといって臆せずに取り上げることが、「教養としてのオペラ」でも「娯楽としてのオペラ」でもなく、正に「芸術としてのオペラ」であると思うのだが、どうであろうか。

 ただ、「ミスター・シンデレラ」東京公演は大人気になると思って、発売前にチケットを入手した私の読みは、実際には少々気負いすぎていたようだ。

(2004年8月28日 新国立劇場中劇場)

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