東京二期会「メリー・ウィドウ」

 二期会の「メリー・ウィドウ」といえば、栗山昌良演出の「メリー・ウィドウ」であって、私のオペラ入門時期から教育テレビでもFM放送でも、また関西でも上演されて、「メリー・ウィドウ」のスタンダードとして舞台も歌詞も頭に刷り込まれている。それだけ完成された舞台であるということだろうし、まだまだ十分に使えそうなのだが、ついに東京二期会が新製作することになった。ミュージカル演出家の山田和也の舞台になる。わざわざオペレッタ未経験の演出家なんか起用せずに、栗山演出をそのまま使えばいいのにと、私とすれば珍しく保守的に少し残念に思っていた。

 しかし、実際に出来上がった舞台を観てみると、この新しい「メリー」もなかなかいける。確かに分かりやすい舞台運びは、少々会話の部分が長く感じられ、それがミュージカル演出家のせいなのかも知れないという気はするものの、少なくともオペレッタの枠は外れていない。こてっとした感じはなく、すっきりきれいな「メリー・ウィドウ」になっている。

 演出だけでなく、見た目にも新しい「メリー」になっている。女性の衣裳は白か、色があってもごくごく淡い色彩のドレスで(マキシムの踊り子なんかは当然別だが)、それがすっきりした印象を与え、また照明にも映える。また、2幕のオブジェ化したあずまやと樹も、それ自体が様々な色に発光して、その色と人物の心理に関係あるのかどうかは一目では判断できなかったが(多分ないだろう)、そうでなくても単純におもしろいという効果はある。

 キャストは、二期会公演はいつもそうなのだが、それぞれに適役を配するだけの層の厚さがある。2幕のフィナーレは存分に泣かせてもらった。ここで泣けなければ「メリー・ウィドウ」を楽しんだという気になれない。配役でひとつだけ注文するとすれば、ツェータ男爵とバランシェンヌの見た目の年齢バランスがもうちょっと小さければ、と思う。それぞれがその役を単独で観たならば問題ないのだが、組合せとしてはどうかな、と感じるのある。(見た目だけの話なのだが、オペレッタとなれば少し気になる。)

 飯森範親指揮の東京フィルは、決してオペレッタらしい音楽づくりではなかったと思う。ただ、オペレッタらしい指揮とは、歌手が演じながら歌いやすく、そして楽しくすることであるから、オペレッタらしくないということは、指揮者がレハールの音楽として取り組んでいる姿勢が感じられるという意味である。だから、例の栗山メリーの舞台であったら、雰囲気に合わなかったかもしれないが、新しい「メリー」にはこういうしっかりした音楽の方がいいのかもしれない。

(2005年2月19日 オーチャードホール)

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