新国立劇場「フィデリオ」

 序曲の間にレオノーレが男装に着替えてフィデリオとなる緊迫した演技が入る。序曲の演奏中に演技を始め出すというのは、賛否があるところだが、少なくとも序曲(前奏曲)がそれ自体で独自の完成感があるものであれば、演技なんて入れずに純粋に器楽として楽しみたいという気がしてくる。「フィデリオ」序曲なんて、まさにベートーヴェンの管弦楽曲として私はとらえていた。それは、私がシンフォニーからオペラの領域に忍び込んでいったせいかもしれない。そのように思っていたのだけど、今回の「フィデリオ」序曲でのレオノーレからフィデリオへの変装シーンは、意外に効果的であった。こういう説明的なパントマイムは、「ふつうの」オペラであれば、少々うんざりするところであるが、「フィデリオ」のように設定が強引なオペラであれば結構すっきりする。それも、音楽に合わせての緊迫した演出と演技があってのことであろうが。

 第1幕第1場の、本来軽めの小市民的シーンも、随時に囚人の連行をあらわにして、この作品が重い政治劇的雰囲気であることを醸し出している。マルチェリーネの歌も、清涼感になりえず、閉塞感に包まれている。

 このあたりまでは、演出の色合いがはっきり出ていておもしろかったのだが、第1幕第2場以降は、どうあっても本来の「フィデリオ」の雰囲気であって、基本的な演出。十分に、ベートーヴェンの音楽と歌を堪能できるといった感じ。

ところが、フィナーレは新郎新婦の群集で埋め尽くされて、囚人たちはひとりも出てこない。特に悪い演出とまでは思わなかったのだが(見た目には華やかでいいのだが)、果たしてどういう効果を狙ったのかはよく分からなかった。

舞台は、一貫して中央に巨大な牢獄の塔のみのセット。この塔の手前の半面が時折開いて牢獄の中が見える程度で(最後は塔全体が持ち上がる)、大体は巨大な塔のまわりで物語が進行する。元々陰鬱なオペラなのでそれでも一向に構わないのだが、舞台の中央に塔がでんと構えているため、重要な演技が舞台の両袖に偏ってしまうところが難点である。

 キャストは、今さらながら感想を述べなくても、役それぞれに合った最良のキャスティングである。ドイツ系の力強いキャストに混じって、マルチェリーネとヤキーノは明らかに日本人のままのメイクであったが、この違和感が作品自体の中でのこの二人の異質感を出していた。(歌は主役たちに引けをとらないが。)

 ミヒャエル・ボーダーの指揮は、「フィデリオ」をオペラとして演奏しようとしている感じがした。ベートーヴェンのシンフォニー的な効果よりも、オペラとしての起伏を作ろうとしているのか。でも、結局はベートーヴェンの力強さにのっている感じ。

 また、新国立劇場の合唱の良さも十分に発揮されていた。

 余計なことだが、(同時に初心者的疑問で恐縮なのだが、)ベートーヴェンは夫婦愛にかなり純粋なものを期待していたのではないだろうか。この作品に対するオペラ作品としての欠点に、台本が拙いとか、設定が不合理で唐突とか、音楽がオラトリオとか、そんなことが言われたり、そうではないとか言われたりするが、そのへんのことは専門家の関心であると思う。そんなことより、純粋な夫婦愛への過度の期待がこの作品にはあって、それがオペラとしてのおもしろさを弱らせているように思える。夫婦愛というものは、こんなに力強く純粋ではなくて、脱力感や気の迷いや仲直りなどがファクターであって、オペラのテーマとしてもそういう夫婦愛の方がおもしろいのではないだろうか。そう思って開演を待っていたら、中年夫婦が夫婦喧嘩をしながら開演直前に駆け込んできて私の隣りの席に座った。この人たちも、きっと「こんな純粋な夫婦愛なんてありえない」と思いながら観ていたに違いない。

(2005年5月28日 新国立劇場)

戻る