新国立劇場「蝶々夫人」

 新国立劇場では今までの栗山昌良演出の「蝶々夫人」が良かったので、わざわざ新演出を制作しなくても(予算的にも)いいのでは、と思ったりしていた。ただ、私の過去の「蝶々夫人」鑑賞暦をふりかえると、そのほとんどが栗山昌良演出なのである。外国人の演出を除いたら、9回中7回までもが栗山昌良演出での公演鑑賞であったので、日本人の制作による「蝶々夫人」イコール栗山昌良「蝶々夫人」という意識ができあがっていたのである。そう考えると、他の日本人演出による「蝶々夫人」を新国立劇場で取りあげるのは悪くはない。今回は栗山民也(先ほどから栗山昌良とフルネームが続いて少々くどいのは、同じ栗山さんのため)の演出。

 これがなかなかいい舞台であった。外国人演出家には真似のできないような日本の様式を再現するのではなく、また逆に場所の設定がどこだかわからない奇抜な演出を施すわけでもなくて、その物語の状況を簡潔でシンプルな舞台で表現できていた。セットは、上へ昇っていくらせん状の階段と下へ沈んでいく同じくらせん状の通路を配して、その円の中に蝶々さんの家を置いている。この家はほとんど床だけなのだが、わずかに障子3枚の仕切りがあって、これだけが僅かに日本だと分かるが、またこれだけでも十分に日本だと分かるのである。今までの「蝶々夫人」の舞台セットは、原則的に横長のイメージがあるが、これはこの作品には珍しく立体的な動きを取り入れたものである。(障子を外してしまえば、「ルル」などにでも流用できそうなセットである。)また舞台への光の置き方がとても効果的に変化していた。

 人物の動作も基本的に「蝶々夫人」の流れのものであるが、こてこての明治日本人のイメージでもない。象徴的なのは、自害直後の蝶々さんの姿を、一歩離れた距離感を置いて子供に対面させるところであり、これについては大きな反感もあるかもしれないが、これからも現実に生きていく子供としては妥当な処置であると思われる。単純な美意識のセンチメンタルさは拒否されるが、各登場人物の行動とその社会背景は観客の意識に上ることになる。

 指揮のレナート・パルンボはこの作品にしては少々乾いた音を出していた。もうちょっとウェット感のある方が、プッチーニの旋律には合っていると思う。オーケストラだけで涙を流すような演奏ではなかった。とはいえ、タイトルロールの大村博美の演技と歌では涙を口元まで流してしまったが。

 また、ピンカートンのヒュー・スミスが終始不安定で力んでいて、現地妻で遊んでみたという軽さがなく、少々悲壮感が漂っていた。それに対しクラウディオ・オテッリのシャープレスは歌唱にも余裕があって、蝶々さんをさとす時なんか小声で語って貫禄十分なのだが、ただ風貌がアメリカ領事というよりドイツマイスターといった感じであった。

(2005年6月24日 新国立劇場)

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