東京二期会「フィレンツェの悲劇」「ジャンニ・スキッキ」

 ツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」とプッチーニの「ジャンニ・スキッキ」を同じ場所(同じ邸宅の別の部屋)の設定にして、ひとつの流れの中で演出したということだが、まずは「フィレンツェの悲劇」単独での感想から。

 「フィレンツェの悲劇」は作品本来の意図や様子は大きく変えられていて、このオペラの(またこの作曲家の)日本での知名度からすると、やはりやり過ぎな演出の感は残る。最初から最後まで、SMを基調とする奇妙な遊戯は、作品読み替えの完成度としては感心するが、果たしてそれが多くの観客の人生や社会に影響を及ぼしたかというと、あまりそういう視点ではなかったように思える。社会現象のほんの一面(それが現実の一面だとしても)を表現できたからといって、普遍的な感動になりえない。一体、この演出を観て、多くの観客はどういう感動を得ればいいのだろうか。肯定すればいいのか、否定すればいいのか。そのあたりに、演出による表現の巧さは見えても、本質が見えてこなかった。そもそもこの作品自体がかなりひねくれた内容であるので、その本来的なものをもっと現代的に分かりやすく演出するだけでも、大きな効果はあったと思うのだが。

 指揮のアルミンクは新日本フィルへの就任時にも「人魚姫」を感動的に聴かせてくれただけあって、おそらくツェムリンスキーには自信があるのであろう。今回も新日本フィルから、この作曲家独特の重苦しい透明感のある美しさがよく出ていた。またキャストも過激な動きにもかかわらずよく歌えていて、そういった音楽面での充実度からも、作品としての良さをもっと知りたいという気分にさせられる舞台であった。

 逆に、「ジャンニ・スキッキ」はとてもよくできた舞台で、思わず唸ってしまうほどおもしろく仕上がっていた。現代風の衣裳は、親戚たちが寄り集まった雰囲気がとても身近に感じられたし、ラウレッタがブレザーとチェックスカートの女子高生制服なのも好感度が高い。(関係ないが、私はセーラー服は好きではない。ブレザーがいい。チェックも好きだ。)人物たちの動きもあちこち忙しいが、要点は押さえていて、観ていてすっきりしてくる。

 ここで、「フィレンツェの悲劇」と「ジャンニ・スキッキ」をひとつの流れとしてみると、単独でもよく出来ている「ジャンニ・スキッキ」の舞台が、「フィレンツェの悲劇」の後半ということで、確かにまた一段とおもしろさが増しているようにも思えてくるのである。それは単に「人の死で終わる作品」から「人の死で始まる作品」への連続感ではなくて、「非日常的な雰囲気の中での死」が「日常生活」の中に織り込まれているおもしろさである。そうすると、かえって「フィレンツェの悲劇」でのSM演出も現実感が出てくる。そして、その前半を知ってか知らずかはしゃぎまくる「ジャンニ・スキッキ」にも現実感がより一層増してくる。そういう効果を狙ったのであれば、「フィレンツェの悲劇」の奇妙な舞台も許せるような気がしてくる。それは、最後にジャンニ・スキッキが観客に許しを乞いながら幕になることで、この夜全体の演出も許せてしまうような気になってくるのである。

(2005年7月29日 新国立劇場)

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