新国立劇場「運命の力」

 京響時代の井上道義のイメージが強い私としては、井上さんの指揮はモーツァルトやプッチーニに向いているのだろうと思っていた。もっともそれは、私の耳がまだずっと未熟な頃で(今も未熟)、オーケストラの響きもよく分かっていない時分のことだから、そのイメージというのもあやふやなものであったのだが。そしてしばらく井上さんの指揮を聴く機会がなく、久しぶりに一昨年「ボエーム」の公演を聴いたところ、意外にも全体をうまくまとめきれていなかった。その時は、幕間から指揮者に対してブーイングがとんでいたから、かなり良くなかったと思う。

 そういう経過から、井上さんの指揮自体にはまだ期待しているところがあるものの、「運命の力」の渋さとはマッチするのだろうか、という不安はあった。(今回は指揮者の顔写真からの判断ではなく、自分の鑑賞暦からの判断である。)

 ところが、またしても意外なことに、結構うまく「運命の力」の世界が醸し出されていた。音楽が(心配していた)薄くなることも、必要以上に重くなりすぎるとこともなく、適度に重たく、またシーンに合わせたメリハリもよく表現されていた。(これはまだ断言できないが、最近、東京フィルより東響の方がピットに合ってきているのではないだろうか、という気がしている。)この音楽的な充実は、指揮だけではなく、主要キャストのすべてがよく役に合っていたことも大きな要因だと思う。ひとりずつ名前を挙げることは省略するが、脇役も含めてそれぞれがきっちり自分の守備範囲を押さえているといった感じで、すき間がなかった。

 演出はエミリオ・サージ。この作品の渋い魅力を損なわずに、作り込んだセットは排して、すっきりとした舞台に仕上げているところは、なかなかうまいものだと思う。しかし、本当はそういう見た目の感じの良さではなくて、もっと精神的なところで訴えたい意図があるように思えるのだが、一回観たきりでは、そこまで踏み込んで理解はできなかった。そのあたりは再演を観ることで分かってくるのだろうか。

 蛇足だが、「運命の力」というタイトルは少し仰々しすぎやしなだろうか。(と、感じている人は私以外にも多いと思うのだが。)

(2006年3月21日 新国立劇場)

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