新国立劇場「ドン・カルロ」

 私の個人的な思いだが、「ドン・カルロ」は歴史ものの大河ドラマになってしまっては作品の本質が見えなくなると考えている。5人の主人公たちの心理的な葛藤と社会の枠組みを意識できるような舞台でなくてはいけないと思うのである。それは表面的に、たとえば舞台設定を現代ビジネス社会に置き換えたところで、直ちに表現できるものではない。設定を変えずに本質的な表現ができる演出であれば最良なのだろうけれど、この作品の場合、あまりに歴史的な時代と場所が鮮明なので、観ている側が油断していると、壮大な大河ドラマとしてしか捉えられないかもしれない。それを回避するためには、なるべく舞台装置などから、時と場所を意識しなくてすむようなものにすればいいのだが、逆に舞台が抽象に過ぎても、オペラとしてのおもしろみは減じてしまう。そのあたりがこの作品の処置の難しいところだと思う。

 そういう観点からすると、今回の演出(マルコ・アルトゥーロ・マレッリ)は、シンプルな舞台作りで衣裳なども自由でありながら、16世紀スペインが舞台だということを忘れさせるほどでもなく、適度に処理されている舞台であった。冷たい石を連想する巨大な灰色の壁をいくつか組み合わせる装置で、十字を基本として、配置や方向を変化させて各場面の情景を作り出す。簡素でありながら、場面作りには十分である。スペイン王宮のこてこてした感じが一切排されているので、人物の動きにのみ注目できる。それはつまり、人物の心の動きに観客を集中させることになるのである。

 そのスタンスは指揮(ミゲル・ゴメス−マルティネス)にも適確に表れていた。かなり抑えた指揮で、最初はとまどったが、徐々にこの作品の内面的な表現に徹している指揮だと感じられてきた。それをオーケストラを含めた全体的な響きで表現するのではなく、キャストの声で表現させようとしている。極力華やかさを抑えた指揮だったので(もっとも「ドン・カルロ」自体、全体に華やかさに乏しいのだが)、ヴェルディの力強い音楽を期待していた人にしてみれば少々物足りなかったかもしれない。エボリ公女の最初の歌やその前後は、その時点ではまだエボリの心に葛藤はないはずなので、もっと一息つける音楽作りでも良かったのでは、とも思われる。しかし、その指摘は演出にも当てはまることであるし、そういう意味では演出意図をよく汲んだ指揮だともいえる。スペイン王宮から離れて、登場人物の心の動きとその上に覆い被さる社会制度の重さをじっくりと堪能できる演奏であった。

(2006年9月10日 新国立劇場)

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