新国立劇場「ばらの騎士」
新国立劇場で同時期に上演された「ファルスタッフ」でも似たような感想を書いたのだが、ジョナサン・ミラーの演出は、いつものことながら舞台設定の変更に大きな意味がないように思える。「ファルスタッフ」では時代を変えずに場所をイギリスからオランダに変えたが、「ばらの騎士」では場所はウィーンのままで時代を17世紀から1912年に変えている。そもそも「ばら」の場合、オリジナルの設定での17世紀ウィーンが、現実の17世紀ではなく、虚構の17世紀だし、1912年といっても、上流社会の雰囲気は日本人の持つ一般的な「ばら」のイメージを保っている。果たして、「ファルスタッフ」における微妙な場所の設定変更とどちらが違和感があるだろうか。(私はどちらもない。)
ミラーの演出の本質は、そういうところではなくて、人物の動きにある。(「ファルスタッフ」の感想とダブってしまうが。)メインキャストはもとより、合唱のひとりひとりにいたるまで、動きが現代的なのである。これは、下手に舞台設定を現代にするよりも、効果的である。セットや衣装がどうであれ、人物のちょっとした動作に共感を覚えると、現代感覚に訴えてくるものがある。
今回のセットでは、各幕ごとに、主要なキャストが演じるメインの部屋の脇に廊下を配することによって、周囲の人間たちの、この物語の脇役としてのごくありふれた行動を、ごくふつうの日常的な光景として見ることができるようになっている。そして、それが一見非現実的なオペラの本筋を、身近なものに感じさせることになり、主人公たちの心情が観客の心にも近づいてくるのである。それぞれの場面で、そういった演出のおもしろさが出ているのだが、特に私が気に入ったのは、第2幕の銀のばら献呈のシーンで、ファーニナル家の屋敷の使用人たちが、遠慮がちにも部屋の奥に入ってきて、めったに見られない珍しいセレモニーを見学しようとしているさまが、その場に居合わせた人としてのごく自然な好奇心と楽しさが表現されていて、銀のばらが一段と引き立つように感じられた。
もっとも、今回の公演に対しての、大半の観客の関心は、ミラーの演出よりも、ペーター・シュナイダーの指揮にあったのだろうということは、大いに予想がつく。私自身も、公演の楽しみの半分はシュナイダーであって、ミラーの演出はもう何作品か観ておもしろさは分かっているのに対し、シュナイダーの指揮は過去に「イドメネオ」の舞台で1回聴いただけで、「ばら」はどうなるのか期待も大きかった。さすがに得意としているだけあって、他の指揮者では作れないような、ウィーンっぽい「ばら」の音楽である。こう言ってしまえば東京フィルには悪いのだけれども、東京フィルにはもったいないくらいの指揮で、もっと違うオケで指揮を聴いてみたかったと、思えてくる。だが決して良くないわけではなく、確かにオケがもっと雰囲気を出してくれれば、何もかもが完璧な公演になっていただろうにとは思うものの、どうにか納得できる雰囲気は出していた。
キャストでは元帥夫人のカミッラ・ニールントがとてもよく役に合っていて、ある程度の年齢層の女性の心をゲットしたらしく、私の左右の席にいた女性は、ニールントが歌うと鼻水を流して泣いていた。(ちなみに右の席は私の妻が座っていた。)ただ、両サイドから鼻水のすする音が聞こえて、不思議と雑音には聞こえず、つられて私も鼻水が出てきそうになり、出てしまった。オクタヴィアンのエレナ・ツィトコーワは、若々しい姿とキリっとした行動で、これも役に良く合っていて目が離せなかった。ゾフィーのオフェリア・サラはスペイン人とは思えない容姿で(スペイン女性に対する先入観(フラメンコ)あり。)、ポーランドかスロバキアの田舎娘のような感じであった。もっとも、ゾフィーがマルシャリンより美人であっては興ざめするのであって、こういうキャスティングでいいのである。
(2007年6月17日 新国立劇場)