東京二期会「エフゲニー・オネーギン」

数年前、新聞の片隅に、ブラチスラヴァでの「エフゲニー・オネーギン」について(特に演出面から)絶賛している公演評が小さく載っていた。短い新聞記事だったのだが、それを読んでいるだけで、タチアーナのあふれる気持ちが胸に迫ってきて、ぜひこの舞台を観てみたいという切望でいっぱいになった。同時に、さすがにブラチスラヴァでの公演を観ることはできないだろうという諦めもいっぱいになった。だが意外にも早く、その舞台を実際に観るチャンスが到来したのである。このプロダクションを企画した東京二期会には感謝である。

ということで、今回の感想はもっぱら演出(ペーター・コンヴィチュニー)についてである。まずはタチアーナが評判通りいきいきとしていた。手紙の場面で、抑えきれない気持ちを表現するためにピットの前まで駆け出させせる手法は、おとなしく机に座ったまま手紙を書いているだけより、はるかにタチアーナの心境を告白している。彼女がそういうときめく少女の気持ちにあふれていることは音楽を聴けば誰でも分かることなのだが、部屋にこもって机に座ったままでは演技で表現しきれない。それを、ピットの前まで出させるだけで、思う存分音楽に即した演技ができるのだから、すばらしい処理である。手紙を書き終えてそれを乳母に託す場面でドタバタしたり、2幕のパーティーでのつまらなそうな様子など、細かいところまでいきいきとした現実にいるタチアーナであった。

もっとも、こういうタチアーナの本来の性格は素直に音楽を聴いていれば気付くところであって、それを適格に表現する工夫に優れている演出だともいえる。それに対しオネーギンの処理は、かなりユニークに性格づけられていたのではないかと思う。今まで、(これは私の今までの鑑賞の薄さからかもしれないが)タチアーナにばかり気をとられていて、オネーギンがいまいち人間的につかみきれていなかった。それが今回の演出で、オネーギンの主人公としての人生経験がこの作品のもう一方での主要な要素だということが分かって、理解が深まった。前半はおごりたかぶった軽薄な感じが、ちょっとした行動にいちいちよく現れていた。1幕3場のタチアーナを振る場面では、わざわざ娼婦たちを引き連れてタチアーナの前に現れたり、2幕1場では通常の演出以上に執拗にオルガと戯れたりと、女たらしであることを多少無理してでも自ら振舞っているようで、その軽薄さがよく分かった。一転して、レンスキーを殺してしまってからは、その動揺と後悔に、人が変わってしまったかのようにまったく自制がなくなってしまい、本来のオネーギンの性格となり、それがタチアーナの良さに気付くという流れは納得いくものであった。

そのほか、ラーリナと乳母が酒びたりになっていたり、2幕のパーティーではイス取りゲームに興じたり、オネーギンとレンスキーの決闘は人に押し囲まれて行われたりなどなどと、そのすべてが賛成できるというわけではないものの、こういう処理方法もあるのだという場面がてんこもりであった。ただその中でもグレーミン公爵を2階サイドの客席でしか歌わせなかったのには疑問であった。半数近くの客席から演技が見えづらかったのはまだ我慢できるとして、かなり不自然な位置からの歌唱であったため音響的にも失敗だったと思われる。(私は右サイドと左サイドの両方の客席から、日を変えて鑑賞したので、そのアンバランスは実感できた。)本来は馬蹄形劇場でのピット横上の貴賓席での演技だと思うので、東京文化会館でもピットの横にそういうセットを設えるなどの工夫を行えば、まだ音響的には満足できたのではと思う。またこの3幕1場については、音楽の省略や簡略化も行われており、この場面の演奏上の扱いが少し淡白になっている印象があり、それがどういう意図なのかも理解できなかった。

指揮(アレクサンドル・アニシモフ)は、演出の意図に合わせているのか、少し抑え気味で積極的な特徴があるものではなかった。もっとも、聴いている私の方が、舞台に神経が集中しすぎていて、伴奏程度にしか注意できなかったからなのかもしれない。オケ(東京交響楽団)はもう少し、金管の響きが安定していれば、と思われた。

キャストは個々の声楽的な良さとしては15日(大隈智佳子、与那城敬、大槻孝志)が若干良かったように思えるが、14日(津山恵、黒田博、樋口達哉)は舞台の設定にとてもよく合っていた。津山さんの笑わないヒロインと樋口さんの破れかぶれの役は、それぞれ大いに得意とするところだし、黒田さんのオネーギンは今回の演出による軽薄さから後悔へのオネーギンにぴったり合っていて、新たな魅力でもあった。

2008年9月14、15日 東京文化会館)

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