神奈川県民ホール「トゥーランドット」

オペラ公演の感想としてはよくあることだが、音楽面ではすばらしく良かったが、演出では不満が残るという典型であった。今年のオペラ鑑賞では、2月の「椿姫」が結構演出に不満が残ったのだが、今回の「トゥーランドット」は、(私が感じたところ)それ以上に演出の意図のわからない、大きな不満が残るものになっていた。

端的に言うと、現実感がない。私は、すべてのオペラ公演に現実感を求めているわけではないし、特に「トゥーランドット」の場合は、題材自体が(場所の設定が北京と特定しているとはいえ)架空の物語なので、ありえないロマンとして押し通す演出もひとつの方法として納得できる。ただ、その場合は、オリジナルの設定を大きく変えるべきではないと思う。しかし、今回の舞台はオリジナルから手を加えて設定を変えてしまっている。巨大な機械装置がメインのセットになっていて、どうみても大工場の内部としか連想できない舞台である。そのセット自体がどうこういうことはないのだが、演出にそのセットがまったく活かされていないのである。機械と言っても古風な歯車が回っているし、作業員が大きなレバーを倒したりしているから、決して現代や未来ではなく、過去のある一定の時代のものであることが想像できる。(それでも演出家は時代を特定していないらしい。)

気になるのが、合唱(民衆や兵士たち)の歩き方で、全員ロボットみたいにカクカク歩いていて、それが最後まで一貫している。どういう意味があるのだろうか。とにかく何か意味があるにしても、そんな変な歩き方で全幕統一されると、ほとんどの場面でプッチーニの音楽と合わなくて、そのことが気になって仕方がない。もし、合唱のこの変な歩き方が、トゥーランドットやカラフといった王侯貴族に対置する大衆の階級を表現しているとしたなら、それこそ現代感覚から乖離した架空の大衆ということなる。一体、この演出家は社会に出て勤めたことがあるのだろうか、と腹立たしさまで感じてくる。それは、第2幕のピン・パン・ポンの幕間劇で、本来にじみ出てくる3人の悲哀がまったく表現されていないことにも通じているものと思う。そこには共感を呼ぶものはない。今、現にオペラを観ている人の人生や社会での立場に積極的にかかわってくるものがなければ芸術ではないと思う。

演出は粟國淳なのだが、お父さんのイタリア・オペラの重厚な演出という偉大な遺産があるのだから、それに沿った演出にすると成功すると思う。繰り返すが、私は「トゥーランドット」らしく架空の北京を舞台にしたオーソドックスな演出でも十分に楽しいと思うから、そういう公演が観たかった。粟國淳さんの演出でも、過去に観た「愛の妙薬」とかドイツものでも「トリスタンとイゾルデ」とか奇を衒わずしっかりとした演出の場合、音楽に集中できてとてもいい舞台であったと私は思っている。だから、私としてはこの演出家に期待する方向は、小手先の解釈ではなく、究極のスタンダードの追求であると思っている。

一方、沼尻竜典の指揮は、これほどの大規模な作品で、よく統制のとれたすばらしい演奏を聴かせてくれた。この作品は大音響と静寂の格差が大きいので、下手な演奏だとどちらかが雑になってくるのだが、そういうことはまったく無く、うまくバランスがとれていた。また、時折現れる抒情的な音楽もきれいに聴かせる。しかも、全体的にしっかりした演奏であるのに、重さや固さは感じられず、フレッシュ感があるのも、個性的で感じが良かった。

キャストについては、主役どころは然るべき配役(並河寿美、福井敬、高橋薫子)で十分に満喫できたのだが、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーから選ばれたピン、パン、ポン(迎肇聡、清水徹太郎、二塚直紀)が、意外にもほかのキャストと遜色ない出来であったことには満足とともに驚きであった。合唱も複数の混合であったがよくまとまっていた。オケ(神奈川フィル)も上出来で、カーテンコールではその大人数の奏者が全員舞台に上がって拍手を受けていたのも、たまには楽しい光景である。

とにかく演奏が良ければその公演には行って良かったのだと改めて実感できた一日であった。

2009年3月29日 神奈川県民ホール)

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