新国立劇場「チェネレントラ」
超有名な演出で、手軽に映像でも楽しめる舞台ということでは、ゼフィレッリの「ボエーム」と双璧をなすと思われるポネルの「チェネレントラ」なので、いまさら公演の感想として「演出が良かった」とか「こんな演出だった」などと言うことは躊躇してしまう。いっそのこと、演出についての言及なしに感想文を書こうかとも、考えた。そう考えたのは、実は開演前であって、いざ公演が終わったときには、こんなすばらしい演出はどれだけ先人が絶賛していようが、それに自分も感想を付け加えないわけにはいかないと、強く確信する気持ちに転じていた。
何がすばらしいかというと、徹底的に音楽に沿った演出なのである。(そんなことは皆さん周知のことだとは承知しているが、実際に舞台を観た者として改めて繰り返す。)音楽に忠実な演出である、の一言に尽きる。音楽の表現がストレートに視覚化されている。一般的に「作品に忠実な演出」という場合、台本に忠実であるという場合が多い。あるいは場面状況の表現としての音楽に合った演出ということになる。ところがこのポネルの「チェネレントラ」の場合は、台本より以前にまず楽譜に忠実な演出になっている。楽譜が視覚化されているのである。それが単に視覚化されるのではなく、得意の不完全なシンメトリーによって極めて美しく表現されているのである。今まで言い尽くされてきた評価でしか演出のすばらしさを説明できない私の表現力のなさがもどかしいが、ここで肝心なのは、映像で観たり解説で理解したりしていても、その本当の良さを知るには生の舞台を自分で観ることに勝るものはないということを改めて思い知らされたことである。
もっとも故人の演出なのでそのままの上演では古さがほころび出てしまうかもしれないが、そこはグリシャ・アサガロフによる再演演出が原演出の価値を減耗させないように補っている。再演で手を加えたのがどこからどこまでなのか分からないところが、上手く補っている結果だと思う。
このような舞台であるので、ロッシーニの作品そのものの普遍的な魅力がよく伝わってくる。現代の日本人がこの公演を観ていても、ストーリー自体にはまり込んでいって、童話としての「シンデレラ」以上に、親近感が出てくる。これは結局、3人の女性による、いわゆる婚活のはなしである。そのなかでも、アンジェリーナの立ちまわりのうまさが引き立って、それが成功につながっている。自分が置かれている現在の状況の中で、物事に積極的に関与していき、かつチャンスは逃さないしたたかさが光っている。もちろんアリドーロ先生に目を付けられるという外的要因も成功の一因であるが、それも含めた複合が、人生での世渡りである。そのほかの、たとえば異母姉妹の微妙な性格の違いなど、それぞれの人物に行動や思考の違いがある。最近の演出であれば、そのあたりをしっかりと表現してくれるのだが、この演出ではそれを観客自身が間違わず感じとれるようになっている。もっとも、そんなことは関係なしにオペラを観ている人にしてみても、この演出だと単純に楽しい時間がすごせるようになっていて、その許容範囲の広さが名演出の証だと思う。
デイビッド・サイラス指揮の東京フィルは、伴奏に徹する感じがして主張がないように感じられたが、それはポネルの名演出に配慮してのことなのだろうか。演奏自体に不満はなく、この舞台に適していたように思う。逆に、もし何か強く主張されていたら、舞台とちぐはぐになっていた恐れはある。
キャストについては、ドン・マニフィコ(ブルーノ・デ・シモーネ)、ドン・ラミーロ(アントニーノ・シラグーザ)、ダンディーニ(ロベルト・デ・カンディア)のイタリア勢が、違和感のない順当な配役。明るい声で、喜劇としての楽しさも堪能できる。そのなかで、アンジェリーナ(ヴェッセリーナ・カサロヴァ)の暗く重い響きと、アリドーロ(ギュンター・グロイスベック)の硬い響きが、異質な印象を与えていて、イタリア勢のあいだで、ブルガリアのカサロヴァ、オーストリアのグロイスベックと、それぞれの出身を連想してしまう。ただ、そのキャストの性格からとらえてみると、意に沿わない境遇でも心底ではしっかりしているアンジェリーナや、自己の考えに揺るぎない自身を持っているアリドーロ先生によく合った声質だったのではと思う。
(2009年6月7日 新国立劇場)