藤原歌劇団「愛の妙薬」

いつの頃だったかはっきり覚えていないが、20年近く前、藤原歌劇団が五十嵐喜芳監督の下、強力なヴェルディ・チクルスを展開していた頃。今ではごく当たり前になっている現代演出が、「読み替え演出」としてドイツを中心に活発になりはじめ、日本にも一部の外来公演などで紹介され出した頃。確か五十嵐監督のことばで、日本ではまだオペラそのものを定着させることに努力する時期、読み替え演出はまだ受け入れるには尚早、藤原歌劇団はしっかりとした舞台でヴェルディを中心にイタリア・オペラを上演していく、ただ、遠い将来、日本でも十分にオペラが定着すれば、藤原歌劇団でも読み替え演出を上演することもやぶさかではない、との趣旨の発言をしたことがあったと思う。結局、五十嵐時代には、ずっと時期尚早だったようで、藤原歌劇団=正統なイタリア・オペラのイメージが確立されてしまっていた。その後は、徐々にスマートな演出や現代風の演出も増えてきたが、東京二期会や新国立劇場に比べるとはるかに正統派舞台の印象は強かった。

それが一気に崩壊してしまったような感じ。今回の「愛の妙薬」は、序曲こそ正統的に幕を閉じたまま演奏されたが、幕が開いた途端、そこはデパートのブランドもの売り場の光景。思わず、客席からはどよめきが起こっていた。藤原の重厚な舞台を楽しみにしているような固定客からすると、「藤原よ、お前もか。」といったような気持ちになったのかもしれない。

この「愛の妙薬」の演出(マルコ・ガンディーニ)は、現代的センスの演出ではなく、はっきりとした読み替え演出。スペインの農村が、現代のどこの大都市にでもあるデパートに替わっている。デパートの1階によくある、化粧品やブランド服売り場における職場結婚の話になっている。それはそれでおもしろい発想だとは思うが、この演出はそれ以上に深く突っ込んだものではなく、そういう意味では、普通の「愛の妙薬」だったのではないだろうか。新しい視点からの分析で「愛の妙薬」をとらえて、こういう解釈もあったのか、と唸らせる演出ではない。一般的に理解されている「愛の妙薬」のまま、舞台がデパートに替わっているだけだから、幕開け一瞬の戸惑いはあっても、まもなく慣れてくればふつうの「愛の妙薬」のおもしろさに落ち着いてくる。だから、途中で帰りだす人もいなければ、カーテンコールで演出家にブーイングも出ず(ブラボーも出ない)、ごく普通に平穏に終わった感じである。

ただ私が感心したことは、舞台セットの質感が非常にリアルで、まったく安っぽい感じがせず、ブランドもの売り場らしくなっていたことである。こんなセットでこういう表現をすることに抵抗がある人もいるかもしれないが、この舞台は豪華なセットだと思う。店の奥の方、かなり端の席からしか覗けないようなところまで、商品が飾られているし、ショーケースの反対側の様子も上階の席からしか分からないようなところまでリアルに作られている。衣裳や小道具も、今あるものだから調達することは難しくないかもしれないが、きっちり作っていて手を抜いていない。ここまで現代のセットを徹底させられると、こじつけさも薄らいできて、こういった面からもこの演出に対する抵抗も少なくなっているのでは、と思われる。

一点だけ注文すれば、ベルコーレの一隊が、士官学校生たちになっていて、その様子が本来のベルコーレ軍曹と同じように見えたこと。イタリアのデパートでは、現在でもこういう制服の士官学校生が来るのかもしれないが、日本では(私が見たかぎりでは)こういう制服の人たちは見かけないので、少し違和感はある。イタリア人の演出家とはいえ、日本で上演することを念頭に、できれば、日本のデパートに徹してほしかった。

園田隆一郎指揮の東京フィルは、若々しい演奏。キャストも、アディーナ(川越塔子)、ネモリーノ(中鉢聡)ともに若々しく、見た目にも現代の若者の職場恋愛っぽさが出ていて、演出の効果を増していたと思う。

2009年6月13日 東京文化会館)

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