東京二期会「カプリッチョ」

チケットもぎりと同時に「演出家からのメッセージ」というビラが配られた。短い文章なので、通常であればプログラムの1ページを割いて載せるようなものなのだが、ビラにしたということは、プログラムを買わない人にも等しくメッセージを伝えたかったのだろうか。もっとも、このビラにおいては、演出上の具体的な解釈を披露しているわけではなく、1942年という政治状況下ではシュトラウスの作曲活動も困難を極めただろうという指摘にとどまっていて、そのこと自体は現代の演出では一般的な認識の範囲ではあると思う。(演出はジョエル・ローウェルス。)

前奏曲のうちに舞台が現れ、調度品が少々荒れている邸宅を、従僕たちではなく官憲たちが整理をしていて、のっけから穏やかでない雰囲気になる。しかし、前奏曲が終わりまもなく第1場に入ると、そこからは見た目には通常の「カプリッチョ」の流れにのって、冒頭の不穏なシーンを忘れてしまうような穏やかな展開となる。延々と言葉か音楽かの論議がシュトラウスの美しい(聴く人によってはつまらない)旋律によって続いていく。喜劇らしい、ふっと笑ってしまうような上品な演出も随所に施されていて、結論の出ない不安定な心地よさが続き、「カプリッチョ」として何の違和感もない。

そうして甘美な雰囲気のまま時間が終盤まで進んでいくのだが、女優クレロンが退場する際になって、冒頭の官憲たちが再び現れ、場違いのような重苦しい雰囲気になる。女優はパリに帰る時間だと言っているが、それは連行される時間であったのだ。そのあとの短い時間のうちに、作曲家も詩人も劇場支配人もみんな、官憲に連行されるか監視下に置かれる運命にさらされる。それは表面上は逮捕とか処刑とかそんな手荒な行動ではないが、芸術活動が政治状況の支配下にあることを認識させる。結局、なんらかの芸術家であるすべての登場人物は舞台から姿を消し、芸術家ではないマドレーヌだけが取り残される。

登場人物がいなくなって歌われる従僕たちの会話は、この舞台の流れからして当然官憲たちの会話に変わっている。ただ、その歌の客観性から、官憲たちが本来被支配層であることも感じられるのである。

官憲たちも去って、この上もなく美しい間奏曲「月光の音楽」になるのだが、月明かりが差し込む調度品が散乱した邸宅の中に、もう誰もいなくなったと思ったバレリーナがひとり入り込んできて伸びやかに踊りだす。音楽と舞台とバレエのもの悲しい美しさに思わず目が潤んでくる。しかしそこにも物陰に若い官憲がひとり忍んでいて、バレリーナに向けて銃を向ける。バレリーナは驚いて身を縮める。とても効果的なシーンである。結果的に銃はすぐに捨てられ、若い官憲は制服を脱ぎ捨てバレリーナとふたりでバレエを踊りだす。この演出はとても示唆的で、官憲も制服を脱げば一私人として政治の被支配者であることを表現していると同時に、たったひとりのバレリーナの踊りであっても、芸術が政治に抵抗できる力、銃を捨てさせる力をもっていることを暗示させる。

「月光の音楽」のあとのマドレーヌの結論の出ない逡巡の最終場面。いままでの舞台であった邸宅は折りたたまれて仕舞われてしまい、マドレーヌが再登場すると、なんと年老いた銀髪の婦人になっている。この演出には一瞬目を疑ったが、すぐに納得がいった。作曲家と詩人が芸術論議をしてから、すでに50年くらいたっているのだろう。老婦人になったマドレーヌがふたりの男性についてどちらを選ぶか決めかねている光景は、すでにふたりとも存在しない(おそらく政治の犠牲において)世の中では、そもそもどちらかに決めることは不可能となっていたのである。

演出の意図は、音楽か言葉かという芸術論争を超えて、芸術を抑圧する政治勢力を背後に感じさせるのは明らかであり、それが演出ノートのビラに簡潔に示されていたのだろう。もっとも、演出全体としては、大胆な読み替えではないし、作品の大枠は崩していない。直接、現代世界を批判しているというより、あくまで作曲当時の状況を作品の中に見出してそれを顕わにしているという感じである。観終わってみると、作品自体への親しみが持てるような、初めての人にでも分かりやすい舞台であったと思う。

沼尻竜典指揮の東京シティ・フィル。新しい劇場が増える中、比較的音響の良くない日生劇場でシュトラウスの流麗な音楽が十分に発揮できるか不安なところもあったが、結果的に満足できる演奏で楽しめた。キャストも、私にはドイツ語の発音の良し悪しまで判断できないのが残念だが、演奏と演技についていえば何も不満を感じることもなくすんなりとシュトラウスの世界に入り込めた。

強烈ではないが、心に残る舞台であった。

2009年11月22日 日生劇場)

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