神奈川県民ホール「ラ・ボエーム」
4幕2時間弱休憩なしの公演。昔はきっちり3回休憩をとっていたように思うけど、最近はみんな忙しいのか、1回休憩の「ボエーム」ばかりになっているが、さすがに休憩なしは初めてである。
演奏時間としては4幕合わせても短いので、ずっと席に座りっぱなしでも十分に耐えられる。また、プッチーニに限らず、休憩を入れないことは、音楽と舞台への集中を途切れさせないという効果はあると思う。昨年の新国立劇場の「ヴォツェック」などは好事例で、音楽の緊張が持続でき、舞台の上での展開からも気が緩めなかった。「ボエーム」の場合はどうであろうか。「ボエーム」を何度も観ている人にとってみれば、4幕を連続させるおもしろさはある。それは他の作品にもいえる、集中が持続するおもしろさである。しかし、初めて「ボエーム」を観る人にとっては果たして親切な処置であっただろうか。たとえば、2幕のクリスマス・イブの群集がそのまま3幕の真冬の早朝の人たちになっているのである。予備知識がなければ、そこに2ヶ月の時間経過は感じ取られないし、それだけの時間が経過していることを知らなければ、ロドルフォとミミが別れるということが唐突なことに思えて、理解不能になってしまう。「トスカ」のように1日の出来事でないのだ。だから、この演出は初心者向きではないと思われる。
そういうことを承知の上であれば、これは新鮮な感覚の「ボエーム」である。セットは何もない。あるのは、(セットといえるのか、)巨大なクリスマスツリーだけで、これが2幕で運び込まれ、立てられて、3幕はそのまま、4幕でそれが倒され、運び去られるだけである。しかし、雪景色の中のこの巨大なクリスマスツリーが、時間が経つごとに美しく、また物悲しく思えてくるのである。4幕がつながっているからこそ可能なセットである。
演出上の圧巻は、4幕に至って、ロドルフォもマルチェッロも作家や画家として成功してしまっているところである。もはや1幕と同じ貧相な食事ではなく、給仕人に支度させるパーティーになっているのである。そこには、別れてから会っていないミミやムゼッタとの境遇の格差が感じられるし、心の中では彼女たちを忘れられない気持ちが漂っている。現実にありそうな光景である。
巨大クリスマスツリーが倒れると同時にパーティー会場にミミとムゼッタが飛び込んできて、ミミの死へと筋書き通りに舞台が進んでいくのだが、幕切れにミミの亡き骸に寄り添うのはムゼッタひとりだけなのである。ロドルフォも含めて、全員舞台から立ち去ってしまう。さすがにロドルフォだけはミミの亡き骸から離れることに若干の未練があるようだが、ムゼッタに遮られると、それ以上の強引さはなく、逃げてしまう。ミミの最終的な理解者は、社会的な位置づけが近いムゼッタであって、人生が順調に進みだしたロドルフォにはその役目は務まらないのである。この演出は、今までの「ボエーム」とはひと味違う感慨が得られた。
キャストは、澤畑恵美(ミミ)、臼木あい(ムゼッタ)など安心できる配役で、実際良かったのだが、舞台の作り方が声の響きには良くなかったように思える。おそらく今回のプロダクションのオリジナルである、ベルリン・コーミッシェ・オーパーの間口に合わせた大きさに、舞台と客席の間を仕切っているのはいいのだが、舞台側は本来の県民ホールの広さのままなので、客席に飛んでくる音が半減してしまっているような感じである。せっかくのいいキャストがもったいない。もう少し、実際に上演するホールの状況に合わせてセットしてほしいと思った。
(2010年3月28日 神奈川県民ホール)