東京二期会「サロメ」

出演者ほか関係者のみなさまには失礼なことだが、「コンヴィチュニー演出のサロメ」という要素だけで、チケット取得の動機としては十分な条件になる。実際のところは、シュテファン・ゾルテス指揮で都響がピットに入るなど、演奏面でもとても良かったのだが、感想文としてはどうしても演出に焦点が当たってしまう。

今回の演出をごく簡単に言ってしまえば、結末をサロメとヨカナーンの愛の逃避行で終わらせていた。これだけを言ってみても、なぜそうなるのかわけが分からない成り行きなのだが、見方によっては納得できるものであるし、正直なところ私は感動して目が潤むほどであった。

プログラム等々から設定を解釈すると大体次のようなことだと思う。逃げ場のない閉塞された空間(具体的なイメージは「第三次世界大戦後の地下壕の中」らしいが、具体的な時間・場所よりも現代社会における閉塞感の概念的なイメージが重要だと思われる)に閉じ込められた登場人物たちが、欲望のままに乱れ騒いでいる。一見したところどういう状況か分からないが、とにかくどうしようも逃げ場のない中で性欲も食欲も乱れまくっている。その乱れたありさまは、実際の舞台上の表現としては、一部の人にはかなりの嫌悪感を催す可能性のあるレベルのひどさである。だけど、舞台が進むうちに、狂った登場人物たちの中で、サロメだけは、なんとなくこの状況から脱したいという毅然とした意志を持っているようにその性格付けが浮かんでくる。また、ヨカナーンは、これは本来の役割だが、この状況及び人間たちは間違っていると訴え続けている。(設定自体が地下壕なので、ヨカナーンは地下牢から出されたり戻されたりするのではなく、終始他の人物たちと同じ空間にいて出来事に参加している。)サロメがヨカナーンのキスを求めるあたりから、この二人には未来の明るさが感じられてくる。そしてヨカナーンの首を手に入れた(ヨカナーンの上半身の人形は出てくるが、ヨカナーン自身は無傷であり、サロメは生きたヨカナーンの唇を手に入れる。このあたりの演出処理は多少強引な感じはする。)サロメは、ヨカナーンと愛の陶酔に浸る。そして息苦しい空間から二人で希望を持って逃げ去ってしまう。大体の設定はこんなところである。

この結末の変更をどう感じるかは賛否のあるところだろうが、少なくとも今までの「サロメ」の性格を根底から覆すアイデアであり、私が感じる限り、それは無理のない設定(細かい舞台上の処理ではなく、人物の性格設定として)だと思う。それどころか、ヨカナーンの唇を手に入れてからのサロメの長い独唱は、見た目にはヨカナーンとの愛の二重唱のようであり、よく聴くとサロメの愛の陶酔感に当てられたR・シュトラウスの音楽は、希望に満ち溢れて弾けんばかりの音楽に聴こえてくるから不思議である。例えて言うなら、地下牢に閉じ込められたアイーダとラダメスにヴェルディは明るい音楽を与えて幕を閉じているのと同じような希望のある音楽に聴こえてくるのである。陰鬱とした暗さの感じられない、逆に光が差し込むような結末の「サロメ」である。その解放感に、思わず私は目が潤んでしまったのである。

とはいえ、今回のコンヴィチュニーの演出は、明るい結末が感動するのであって、途中まではそのような結末に持っていくことが分からないので、閉塞感の中でのバカ騒ぎだけが続いて単調な感じがしてくる面もある。最後まで演出を観て、全体感がつかめればいいのだが、初めて観るとそれがわからないので、「こんな騒がしい舞台がずっと続くの?」という気がしてくる。前半は狂乱の感じを強調するばかりで、びっくりするような仕掛けは見られない。七つのヴェールの踊りにしても、単純にサロメだけが踊って終わるのではないだろうとは予想できるが、そう予想できるからには何かおもしろい処理を仕掛けてくれないと、かえって「この程度?」と思ってしまう。この場面としては結構おもしろい処理にしていると思うのだが、過度な期待が外れた気がしないでもない。(この部分については、前回の「エフゲニー・オネーギン」の舞踊音楽シーンで見せてくれた秀逸な処理と比較して期待していたところである。)

ちなみに、愛の二重唱のように演じられるサロメの最後の独唱は、幕を閉じた舞台前でヨカナーンと二人だけで演じられて、歌い終わったら二人で舞台から立ち去ってしまった。そうなると、大詰めのヘロデが叫ぶ「あの女を殺せ!」はどういうふうに処理するのだろうと期待が出てきた。すると、1階客席に座っていた男性が突然立ち上がり、サロメが立ち去った舞台袖を指差して、「あの女を殺せ!」と叫んだ。しかも日本語で叫んだ。さらに、その隣にいた連れの女性がその男性に「やめなさいよ」といわんばかりに席に座らそうとしていた。この処理に私は思わず笑ってしまった。希望にあふれてサロメが立ち去ったところで演出の意図は完了したのだろうけど、どうしてもそのあとにヘロデの歌詞がひとつ残っている。最後のセリフを客席に言わすことなんて、演出全体からすれば不要であり、残ってしまった最後の歌詞の単なる処理だと思うが、とてもおかしいアイデアで、思わず口がほころんでしまった。考えてみれば、シュトラウスは「ばら」にしても「アラベラ」にしても最後は少し気が抜けた音楽で終わらせているから、それに通じるものがあるかもしれない。それにしても、「サロメ」をまったく知らない観客からすれば、客のひとりが叫んで終わるなんて思いもよらなかっただろうし、あまりのことにあっけにとられたと思う。

2011年2月26日 東京文化会館)

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