東京オペラ・プロデュース「ブリーカー街の聖女」

初めて鑑賞するオペラは、CDや映像で予習したりして予備知識を得る前に、舞台で直接楽しみたいと思っている。できればあらすじさえ知らずに舞台を観てみたい。そのような鑑賞方法はオペラ愛好家の正統ではない(超初心者並み)と分かっているものの、一種の性癖のようなものだと思う。

今回のメノッティの作品もどういう内容かまったく知らなかったのだが、鑑賞後の感想は「一体、作品のメッセージは何なのか、どう理解したらいいのか」というようなものだった。ストーリー自体は難解な面はまったく無い。簡単にあらすじをまとめると、次の通り。場所はアメリカのイタリア人貧民街。奇跡(触ると病気が治る)を起こす妹と、そんな奇跡など信じない兄がいる。妹には神父をはじめ、街のみんなが狂信的に取り巻いている。兄は、妹のことを思って、正気にさせようとする。妹も兄を思っている。兄には恋人がいるが、口論で刺殺してしまう。妹は以前からの希望通り修道女になるが、それと同時に死ぬ(衰弱?)。全3幕である。理解困難な場面はないが、作品の主眼がどこなのかもはっきりしない。

「俗な兄の妨害にも動じず、希望通り修道女になる妹の話」なのか、「聖女に祀り上げられた妹を、狂信的な集団から救い出そうとして果たせなかった兄の話」なのか。このどちらかとしたら、「兄とその恋人の刺殺事件」はどういう意味として捉えたらいいのか。これらの根底には、大都会での移民社会をベースとした貧困の問題が横たわっているのは明らかだろうし、兄とその恋人は社会集団から村八分的な扱いにもなっているという側面もある。

いずれの側面から考えても現代的なアプローチは可能であり(初演は1954年)、演出によってはいろいろな問題提起が可能だろう。場合によってはカルト教団を題材にして、とても危ない舞台演出もできそうである。

ただし今回の演出は、日本初演作品をオーソドックスに紹介する東京オペラ・プロデュースらしい、それぞれの場面を丁寧に説明するような、すなおな演出。そういう演出もあって、より一層作品の主眼がつかめなくなっている。いっそのこと、多少強引でも演出にひねりを加えた方が分かりやすかったかもしれない。(今回の演出の八木清市は、青いサカナ団では核戦争後の「トスカ」を作っていたから、すなおな演出は東京オペラ・プロデュースの方針だと思われる。)

もっとも、プログラムの解説を読めば、メノッティ自身が教会を理解しようと努力して、結局理解できなかったように書かれているので、作品はその体現かもしれないし、演出意図もそこにあるのかもしれない。

ストーリーの内容は置いておくとしても、音楽はとてもおもしろい。特に第1幕が迫力満点である。幻影幻聴の妹アンニーナが奇跡を起こし始め、そこに集まった狂信的な集団がトランス状態に陥る様は、音楽での表現がおぞましいほどで、宗教の敬虔さではなく怖さが感じられてくる。周囲に客のいない1階の端の席に座ってひとりで観ていると(客の入りは良くなかった)、不覚にも少々びびってきてしまい、もう家に帰りたくなってくるほどであった。第2幕になると一転して宗教色は薄れ、イタリアオペラのようなになる。アリアが連続して、その果てに殺人事件。音楽はおもしろいとはいえ、特徴的ではない。第3幕は第1場が地下鉄の駅売店のシーンで(最近の演出家が好んで設定しそうなシーンだが、この作品ではオリジナルの設定)、時折、地下鉄が通過するときの音の描写がとてもリアルなオーケストレーションで感心してしまう。地上の鉄道の音ではなく、地下鉄らしい轟音になっている。自然とその間は歌詞が途切れる。最後の第3幕第2場は、宗教的な雰囲気の音楽に戻るが、第1幕のような狂信的な激しさはなくなり、穏やかな音楽が多くを占めるようになる。他の作曲家の修道女ものオペラと同じような敬虔な幕切れの音楽である。

指揮はおそらくまだ若い飯坂純。私自身、この作品の音楽を聴くのは初めてなので、あまり分かったことは言えないのだが、各シーンの音楽の雰囲気がよく伝わってきたので、演奏もとても良かったのではないだろうか。これはキャストについても同じように言える。

ピットがとても深いのが気になった。指揮者が立っていても埋もれてしまうほどだ。そのため指揮者の挨拶が困難であり、実際、1幕と2幕は予め指揮台にいて挨拶抜きで音楽を始めていた。でも最終幕の冒頭では、慣習上指揮者の挨拶は欠かせないので、どうするのだろうと思っていたら、ピットの内側壁面をまるでロッククライミングでもするかのようによじ登って、急いで挨拶をしていた。一部の客席からは失笑があった。まだ若い指揮者からできる芸当だなと、思った。

2011年7月10日 新国立劇場中劇場)

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