バイエルン国立歌劇場「ナクソス島のアリアドネ」

非常によくできた舞台だった。泣くほど感動する公演というのはよくあるが、それは私の場合、現実の人生や社会に引き合わせて何かしら納得する点があったことによる。それが今回は、いつものそういった要因ではなく、舞台の進行がすばらしくよくできていたことに感動してしまったのである。

端的に言うと演出(ロバート・カーセン)が、よくできていた。よくできていると、私が感じた点を整理すると、次の点である。1.悲劇と喜劇の同時上演としてよくできている。2.悲劇としてもよくできているし、喜劇としてもよくできている。3.劇中劇としてよくできている。4.キャストの演奏・演技の質が高く、演出によく合っていた。

まず、「アリアドネ」の特徴のひとつである、喜劇と悲劇の同時上演の処理が際立っていた。「アリアドネ」の上演では、ふつう、本編のオペラでの悲劇と喜劇が継ぎはぎのようになって、悲劇の流れのなかに喜劇組が強引に入り込んでくるような処理になってしまう。しかし、今回は、悲劇と喜劇が継ぎはぎに出てくるのではなく、うまくミックスされていた。たとえば、アリアドネが黒い衣裳を着けて絶望に打ちひしがれている場面で、舞台上にアリアドネと同じ衣裳を着けて同じ所作を行なう影のような存在を十人ほど配し(この影の存在は、後述するが、悲劇として絶大な効果があった)、アリアドネと同様に死を望みながら嘆いている。ところが、この影たちの中に喜劇組の人たちが紛れ込んでいて、しかもツェルビネッタだけでなくハルレキンなど男たちも女装して紛れ込んでいるのである。だから、喜劇が悲劇を中断させるというよりも、悲劇の中から喜劇が登場するような形になっていて、とてもおもしろくて笑えるし、オペラの流れがスムーズである。悲劇組も喜劇組も基本的に衣裳は同じような黒色であり、両グループを対立させているのではなく、融合させて処理しているような感じになっている。おかげで、同時上演の不自然さをおかしむのではなく、同時上演の絶妙さを楽しむようになっている。

また、今回の上演の特徴は、アリアドネの悲劇としても存分に楽しめるようになっている。本来、アリアドネの悲劇の物語は、「ナクソス島のアリアドネ」の単なる素材としての扱いであって、それだけをもってまじめに感動させるような演出にはならないことが多い。この演出では本編のオペラでの舞台セットは何もなく、黒い壁の箱の中だけで演じられる。だから歌と所作だけでアリアドネを演じることになる。そこを前述したアリアドネの影たちが、アリアドネひとりだけでは単調になるところを視覚的に補助することになる。この影はバッカスにも同じように付いている。意外にこの影たちがアリアドネの心象を増幅する表現ができていて、悲劇としての効果が大きかった。(一方で、前述の通り、この影たちが喜劇のきっかけにもなっているのである。)また、バッカスの登場は背面の黒い壁が少しずつ開いて、明るい光とともに登場し、最終的に背面は真っ白な光となって、アリアドネとバッカスの愛の二重唱はシルエットで歌われる。「アリアドネ」の物語として、感動的な幕切れの二重唱の様相である。

一方、喜劇の方もすさまじい。特にツェルビネッタは、男性ダンサーたちとのやりとりで激しく動き回りながらコロラトゥーラのアリアを歌い上げて、ただただ感心するばかりある。喜劇組のおもしろさに、時々客席から笑いが出るほどであったが、ふつうの「アリアドネ」の上演では、悲劇の合い間ということも、そこまで笑いが出ることはあまりなかったと思う。

「アリアドネ」のもうひとつの特徴である劇中劇の処理もよくできていた。ここでは「作曲家」の役割をうまく活かしていた。まだ客が入りきっていない開演10分前にいきなり幕が開いて、舞台裏の練習室のセットが現れ、ダンサー(作品中の喜劇組の踊り手)たちがレッスンをしている。ちゃんと舞台上にピアノがあって、実際にいろんな曲を弾きながら、練習している。そして東京文化会館の開演の鐘が鳴ったことを合図に練習が終わって、まもなく本番の公演が始まる様子となる。客席の照明が明るいまま、プロローグの音楽が始まって、自然と作品に入っている。プロローグでのやりとりは、本当に公演直前の舞台裏でのドタバタに見えてくる。悲劇と喜劇の同時上演を作曲家が認めて、プロローグの幕が閉じるが、そのあと作曲家はオケ・ピットの前(客席の最前列)まで下りてきて、指揮者に自分の楽譜を渡し、それを実際に指揮者(ケント・ナガノ)が受け取り、譜面台に置いて、本編のオペラが始まる。作曲家はそのままピット横の舞台脇に座ったまま、本編のオペラの成り行きをずっと見守っている。

オペラの最後、アリアドネとバッカスの感動的な二重唱が(本当にアリアドネの悲劇として感動的に)終わって、後奏が鳴り響いているうちに幕が下りる。そして幕の前に作曲家が満足してひとり静かに歩いてくる。そのうちに音楽が終わり、再び幕が上がって、出演者やスタッフがぞろぞろ舞台上に出てきて、「作曲家」に対してオペラの成功を拍手で迎える。それが同時に客席の拍手を誘い、客席と舞台の拍手が一体となる。おまけに(この日は公演最終日だったからか)来日公演成功の感謝の垂れ幕まで下りてきて、どこまでが演出でどこからが現実なのか分からなくなってくる。舞台上には本当のスタッフや楽団員まで上がってきて、大賑わいで終わった。

さらに、これらの演出上の特徴を実現できるだけのキャストの演奏と演技がすばらしい。ツェルビネッタ(ダニエラ・ファリー)は、アリアでの絶唱だけでなく、艶やかな感じも十分に出していて、魅力的である。アリアドネ(アドリエンヌ・ピエチョンカ)、バッカス(ロバート・ディーン・スミス)は、ほとんどセットも小道具もないところで、感動的な二重唱を歌い上げていた。そして作曲家(アリス・クート)も、公演全体の要所を演技力たっぷりに締めていた。そのほかも、舞台セットがほとんど何もない中であったので、全体的にキャストの歌と演技の力量だけで成り立つ演出だったとも言える。

とてもよくできた舞台だなと、終始感心していたのだが、感心がいつのまにか感動に変化したらしく、自分では気が付かないうちに涙をたれ流していた。ふつうは心の琴線に触れて「これは感動して泣くぞ」という予兆が沸いてくるので、少しずつハンカチで対処するのだが、今回は感心ばかりでまさか感動しているとは自覚していなかったために、気が付いたときには、両目から涙、そして鼻水が流れているという姿になっていた。

2011年10月10日 東京文化会館)

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