東京二期会「パルジファル」

「パルジファル」を舞台で観るのは初めて。私的なことだが、これをもって、私のワーグナー全13作品の舞台鑑賞が完遂した。オペラを観はじめた頃には、まさか「妖精」から「パルジファル」まで、ワーグナーの舞台作品にすべて接することができるなんて、夢にも思わなかったし、希望もしなかったのだが、やはり好きなことは長く続けるものである。

「パルジファル」を舞台で観るのは初めてだと言ったが、実はビデオでさえ全曲を聴き通せたことは、過去に2回しかなかった。物語が不可解な上に、耐えられないほど長く感じて、思わず眠りそうになってしまうのだ。多分、こういうオペラは、録音で聴くよりも舞台で生の音楽を聴かないと、そのおもしろさが実感できないのだと思う。「トリスタン」だって、ビデオで観ている限りは退屈だったのだが、初めて舞台で観てから音楽のおもしろさに気が付いて、それからは積極的に聴けるようになった。「パルジファル」にしたって、同じようなものだろうという予感はしていた。

実際に舞台を観ると、その予感はその通りだった。飯守泰次郎指揮の読売日響がとても良かったこともあって、5時間を超える上演時間が退屈することなく全然長く感じられなかった。いや、正確な気持ちを言うと、2時間近くもある第1幕なんか長く感じたのだが、いつまでたっても終わらないその長さそのものが心地良く感じられたのである。もしかしたらこの状態はワーグナーの魔術に囚われてしまっているのだろうか。危ないかもしれない。

私とパルジファルの話はさておき、今回の公演は演出(クラウス・グート)がとてもよくできていて、そこから言及せずにはいられない。ひとことで演出に対する私の感想を言えば、日本人にはできない演出だと思った。そもそも相手が「パルジファル」の場合、日本人だとオペラではなく「舞台神聖祝典劇」であるこの作品をどこまで大胆に踏み込んで演出できるか、そういったところでおとなしめの演出になってしまいそうな気がする。その点、ドイツ人の演出家であれば、この作品の神聖さを理解しているだろうから、その上で本質を崩さずに、よりおもしろい舞台を作り上げられるように思う。グートの演出も、この作品をオペラとしておもしろく思える舞台を作っていた。

時代設定は第二次大戦前にしているようだが、おそらくそのことにも意味があるのだろう。ただ、そのような微妙な設定はドイツ人でなければ実感できないとも思う。グートの演出の特徴は、そういう時代設定よりも、むしろ、非常に説明的で分かりやすいところにあると思う。仮に「パルジファル」を初めて観る人であっても、眠ってしまいそうなこの作品をずっと舞台に集中させて、本来の話のあらすじをつかめさせてくれるような工夫がなされている。そういう意味では初心者にもやさしい演出だともいえる。(もちろん時代設定の変更には、分かる人にしか分からないような意味合いがあるのだろうけど。)

舞台セットは、大きな廻り舞台を3つに区切って場面を変える手法。その廻り舞台をよく回すし、一周すると元のセットなのだが、小道具を変えて前とは違う場面にしていたりする。歌のない音楽だけの時もよく回して、ト書きにないシーンも黙って演技だけつけていたりして、よく分かる。悪くいってしまえば、音楽の壮大さに比べて演技が説明過多だともいえる。

その廻り舞台は、基本的に重厚な雰囲気の病院(おそらく戦場の近く)の内部と外部になっている。照明は薄暗い蛍光灯で、舞台全体に閉鎖的な雰囲気を漂わせている。人物たちの様子からすると、宗教団体の病院かもしれない。ティトゥレルとアムフォルタスは宗教団体(=病院)の創始者とそれを引き継いだ息子のようである。グルネマンツが実務的な管理者か。男声合唱は患者たち。女声合唱は看護婦なのだろうけど、宗教団体らしく、白衣ではなく、黒の服に白いエプロンをしている。(遠目にはメイドに見える。)クンドリも基本的にはここの看護婦。パルジファルは、この閉鎖的な空間への闖入者で、この設定はそのままである。

一方のクリングゾルであるが、第1幕の前奏の間に幕が開いて、すでにそこでこの人物の立場が示唆されていた。そこでは、小部屋でテーブルを囲んでティトゥレル、アムフォルタスとクリングゾルが座っているのだが、ティトゥレルがこの宗教団体の後継者にアムフォルタスを指名して、クリングゾルが怒って出て行ってしまうのであり、ここから幕が開く。だからクリングゾルはもともとだ団体内部の人間であり、だからこそ団体を潰そうとたくらんでいる心情も理解できる。

クライマックスは、実務的な管理者グルネマンツが擁立したパルジファルがこの団体の指導者となる。それは確かにあらすじからもそうなのだろうが、ここで唐突にパルジファルは軍服(幹部のもの)に着替えて登場する。そして大広間の2階の回廊から、整列した群衆(兵士)を威圧的に見下ろしている。隣に立つグルネマンツは参謀のようだ。時代背景からして明らかにナチスである。クンドリは荷物を持ってこの団体から立ち去ろうとしている。その姿を見て、パルジファルは動揺を隠せない。

さらに全幕の終わり、後奏の部分で、建物の外の庭に場面が移り、クリングゾルがひとりでベンチに力なく座っていて、その傍らにアムフォルタスが、こちらも力なく腰掛ける。そして二人は和解する。和解する演出だけならそれほど衝撃的ではないのだが、その和解が「舞台神聖祝典劇」らしい大仰な和解ではなくて、交互に軽く背中をたたく程度の、こぢんまりとしたごく内輪の和解の様子なのである。一時は対立していたとはいえ、外部から現れた若い世代のパルジファルに駆逐された者同士という共通した寂しさの漂う和解である。このオペラにこの結末で感動的なのかどうか賛否は別としても、よくできた舞台であると思う。

演出の印象が大半で、音楽面の感想が少なくなってしまったが、前述したとおり、飯守さんの指揮そのものが成功の一番の要因であると思う。キャストも、歌はもとより演技についても日本人だけとは思えないほど動きが自然だった。

(2012年9月16日 東京文化会館)

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