藤原歌劇団「ラ・ボエーム」

 「ボエーム」の時はいつも泣いてしまったという感想でそれ以上に発展しないのだが、また泣いてしまった。どうして何回も観ているのにいつも泣いてしまうのだろう。しかも、いつもはカーテンコールの間に涙も乾き客席の照明が明るくなる頃には何食わぬ顔に戻れるのだが、今回に限って感動的なカーテンコールだったものだから涙を浮かべたまま明るくなってしまった。

 どうしたのかというと、公演のあった2月27日はフレーニの誕生日だったのだ。フレーニファンの私としては、私と同じ2月生まれだし、誕生日は知っていたはずなのに、五十嵐喜芳氏がカーテンコールで紹介するまですっかり忘れてしまっていた。不覚。それで、カーテンコールの時に、ケーキが運び込まれ、オーケストラ伴奏でハッピーバスデーと合唱されるものだから、フレーニも喜んでしまい、喜んでいるフレーニを見ることができた私は嬉しくてまた涙が出てしまったのだ。この日は夫のギャウロフが熱が出て舞台に来ることができなかったのが残念。ギャウロフの歌が聴けなかったことも残念だけど、それ以上に誕生日をお祝いしている横に夫が病気で来ることができなかったことの方が残念に思う。

 フレーニのミミなんて、フレーニの年齢からするともう日本では聴けないだろうと完全に諦めていた。スカラ座の来日公演で歌った時は、私はまだ学生だったので聴いていない。その後、オペラとコンサートで1回ずつ聴くことができたが、いつも「これでフレーニを聴けるのは最後だろうな。でも1度でいいからミミを聴いてみたかったな。」と思っていた。自分の好きな歌手が自分の好きな演目を歌うのを聴けることほど幸せなことはない。たまたま今回は近くの公演だったが、高知の山奥にいようが、どこか日本の果てにいようが、多分横須賀までかけつけていたと思う。

 それにしてもフレーニはすばらしい。最初のひと声を聴いただけでチケット代を払って来ただけの価値はあったと感じた。技巧的ではないし、特殊な声質でもない。グルベローヴァなどと比べると、とても身近に感じる声なのだけど、その美しさは格別である。その上、自己抑制をして年齢を重ねても衰えないところには、人間としての魅力まで感じる。

 そういったすばらしい歌手の現役生活と、私のオペラ鑑賞生活の時代が少しの間だけでも重なっていることは、感謝すべきことだと思う。

(2月27日 よこすか芸術劇場)

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