東京二期会「ホフマン物語」
以前にも何度か言い及んだことがあるのだが、私の個人的な好みとして、アントニアの場面が最後に来るべきだと思っている。ところが最近ではジュリエッタが最後に来る公演ばかりであって、私の心の中では少々わだかまりが残り、公演の記憶の中で順番を入れ替えてみたりしていた。そんななかで、今回の公演は、期待はしていなかったのに、アントニアが最後に来る昔ながらの演出だった。演出家(粟国淳)というより、指揮者(ミシェル・プラッソン)の意向だったようである。
過去の公演感想で私の考えは表明はしているので詳しくは書かないが、まずもって音楽的にアントニアの場面が一番充実していることが最後に持ってきたい理由である。嬉しいことに、プログラムには、プラッソン氏も私と同意見で、音楽的な充実度から最後に持ってきたらしい。それから、各幕の物語の中ではアントニアの話が一番終末的な雰囲気が漂っている。それに、ホフマンの成長の相手としては、人形、娼婦、芸術家の順ではないだろうか、とも思っている。(もっともプログラムに載っていた別の解説を読んでみて、未完の作品であるがゆえに幕ごとの音楽的充実度はこだわらない方がいいのかも、とも思ってきた。)
ただし、久しぶりにこの版で聴いてみると、あからさまにジュリエッタの場面が物語的にも音楽的にも薄く感じる。だから、できることなら、昔ながらの版ではなく、最近の版で、しかもアントニアとジュリエッタの幕を入れ替えてもらえれば、私の満足するところであるが、ここまで要求すると邪道も甚だしいだろうから、ここだけの話に留めておこうと思う。
夏の暑い盛りだし、キャストは二期会だから一定のレベルで充実しているだろうし、演出は当たり外れの大きい粟国淳だから、夏バテ気味の体力は、ミシェル・プラッソンの指揮する演奏に集中しようと思って出かけた。実際、最初の序奏から演奏には満足していたのだが、まもなく舞台の方に神経が集中してしまい、オペラ鑑賞だから当然なのだが、物語に引き込まれていった。今回の粟国さんの演出が良かったこともあるし、プラッソンの指揮が安心して舞台に集中できる演奏であったからでもある。
最初と最後のルーテル酒場は別として、3つの幕は傾斜のついた大きな廻り舞台を使って、それぞれの物語の特徴を出していた。たとえばアントニアの幕では、家具が両脇に散乱していたりして、とてもよく情景を表している。但し、各幕を端的に表現しているので、この作品をよく知っていない人には、幕と幕のつながりがつかめなかったかもしれない。そのためか、次の幕は、前の幕の最後から始まるような演出をとっていて、これは「ホフマン物語」をよく知っていると少しくどいように感じるが、知らなければわかりやすいものだと思う。また、これは使用した版のためかもしれないが、ミューズ=ニクラウスの役割や、各幕の悪魔役のつながりなどが、印象が薄く感じられた。もう少し劇的に人物を扱えれば、作品全体としてのおもしろさが増したのではと思う。一方で、舞台装置はホーンテッド・マンションばりの仕掛けが施されていて、この点は単純におもしろかった。
結構、物語に集中してしまい、音楽的な感想は残らなかったのだけど、それだけ演奏も気になるところもなく、充実していたおかげだと思う。
(2013年8月3日 新国立劇場)