新国立劇場「フィガロの結婚」

アンドレアス・ホモキ演出のこのプロダクションを観るのは2度目。とてもおもしろくできている舞台だと思うが、フィガロの作品自体をよく知っているという前提で観ないと、ちょっと解釈が困難というか状況把握が難しいシーンもある演出であり、そういう意味ではインテリっぽい舞台である。

全面が白い部屋の壁や床、天井が次第に崩れていくセットであり、その部屋にある道具も白い段ボール箱がいくつもと大きな白いタンスがひとつだけである。具体性を極力排除した一見シンプルな舞台であり、ここのところ新国立劇場ではデパート、キャンプ場、ホテルと具体的な舞台設定が続いていたなかにあって、古い演出ながら新鮮な感じがする。

インテリっぽい演出だといったが、例えば、1幕のアンサンブルや4幕のフィナーレなどのドタバタの場面でも、演出家は最初から客席を笑わすつもりなどないようであり、初めてフィガロを観る人にしてみればよく分からないまま舞台が進行してしまうのではないだろうか。しかし、例えば3幕のダンスの場面では、登場人物が全員舞台背後に出て行ってしまい、誰もいない暗い部屋にダンス音楽だけ流れるのは、見えない奥の大広間でのダンスが観客それぞれ(初めて観る人にも)想像できて、印象的である。セリフのある伯爵だけが手紙を持って舞台の暗い部屋に戻ってくるなどは、かえってダンスの雑踏の中で手紙を見るよりは分かりやすくて効果的だと思う。

前回観たときは気付かず、今回ハッと気づいた点がひとつあった。3幕最後にバルバリーナが伯爵に壁に押しつけられて凌辱され、そのままバルバリーナひとり残して4幕に入り、4幕冒頭の短調の音楽が始まると同時に青白く悲劇的な照明が彼女を鋭角的に照らす。その中で、壁に立ったまま茫然とうなだれたバルバリーナが「なくしてしまった…」と歌うのだが、この状況で聴くと、明らかにピンをなくしてしまったという歌詞ではない。登場人物の中で一番若い彼女は、この時もっと大事なものをなくしてしまったのではないか、そういう歌に聴こえてくる。

ウルフ・シルマーの指揮がとてもよくまとまっていた。序曲だけを聴いても、台風の中を来ただけのものはあると感じさせる。小気味よいテンポで、オーケストラが程よい大きさできれいにおさまっている。東京フィルのピットでは久しぶりに気持ちよく聴けた。だがしかし、ホルンだけが終始まずかった。ホルンが入るのは一部とはいえ、せっかくよくまとまっているのに、これではちょっと残念である。

キャストは、外国人は初めて聴く人ばかりであったが、こちらもよくまとまっていた。見た目にも、ケルビーノのレナ・ベルキナは女装シーンもかっこよく美しかったし、伯爵夫人のマンディ・フレドリヒは顔が幼い感じがして(身体はそうではないが)、伯爵と結婚してまだ数年の雰囲気が出ていた。フィガロのマルコ・ヴィンコは唯一のイタリア人だったが、逆に歌詞がべったり聴こえたのは私の気のせいだろうか。

(2013年10月26日 新国立劇場)

戻る