新国立劇場「死の都」
コルンゴルトのこのオペラを舞台で観るのは初めてであり、過去にビデオで観たことはあるのだが1回きりだったし、しっかり聴くのは実質的に今回が初めてとなる。原作の「死都ブリュージュ」も学生時代に文庫本を手に取った記憶はあるのだが、最後まで読んだのかどうだか、その内容は憶えていない。
ということで、ほとんど作品自体の感想になるのだが、まずもって3時間飽きのこない音楽であることに驚いた。過去1回きりのビデオ鑑賞の時の記憶とは印象が違う。ヤロスラフ・キズリンク指揮の東京交響楽団の演奏が迫力十分だったからだろうか。あまりに耳に聴きやすい音楽なので、少々俗っぽい感じがしてこないでもない。妻を亡くした男のオペラにしては、鎮魂的な感じもしなければ夢幻的な感じも悲壮な感じもしてこない。夢の中とはいえ殺人シーンがあるにしては、ヴェリズモとも違う音色である。幻想的な物語の内容にしては、現実的で明るい音楽が響き続けている印象を持った。そしてそれが、心地よく聴こえてくる。
そのような音楽でありながら、あるいは逆に現実感のある音楽だからか、若くして妻を亡くした気持ちが胸にグッと迫りこんでくる。1幕目から死んでしまった妻のことを思い出してきたような気持ちになって、恥ずかしげもなく涙を流し続けてしまった。これが宗教感あふれる音楽に満ちた作品であれば、逆にここまで同感して泣くことはないのではないだろうかと思う。特に今回の演出(カスパー・ホルテン)は、亡き妻マリーの亡霊を、俳優を使ってほぼすべての場面に登場させて演技させていたことが効果的だった。夫パウルの気持ちの動きに合わせて、妻の亡霊も気持ちを変化させるさまが切なくて、心に響いてくる。1幕ではパウルは、新しい踊り子マリエッタに興味を示しながらも、実際にはマリーの思い出に引きずられていて、妻の死から精神的に脱却できていないことがよく分かり、私の気持ちまで重くなって涙が止まらなかった。しかも、そんな気持ちを休憩中まで引きずってしまい、若くして死んだ妻の追憶に心が満たされてきて、中庭のベンチでドーナツを食べながら胸が詰まって涙が浮かんできてしまった。(つい先日、ロセッティの「ベアタ・ベアトリクス」を観たときも、死んだ妻のことが胸に迫ってきた気持ちになって、しばらく絵の前で立ちすくんだまま泣きそうになったことがあり、気が付くと係員の女性が慈愛のまなざしで私の方を見守っていたのであった。)
とはいえ、幕切れになると、新しい女性マリエッタを絞殺したことが夢の中であったというオチまでついて、それをきっかけに妻マリーの記憶から解放されて、美しい想い出として止揚するという希望的な結末に、私自身、力がみなぎってきた。そして、1幕の時とはまた違った意味での感動の涙が止まらなくなった。否定的な語感のある「死都」が、前向きな意味を持つことの実感がようやく自分の心にストンとおちてきた。
現実の私の妻は元気なのであるが、こういう芸術鑑賞の後は、帰宅後の気持ちも新たになるものである。
パウルのトルステン・ケール、マリエッタのミーガン・ミラーが歌も演技もすばらしかった。プログラムには名前しか載っていなかったが、マリーの亡霊を演じたエマ・ハワードも好演。
(2014年3月15日 新国立劇場)