モーツァルト劇場「魔笛」

 「日本語で上演するなら、こういう訳詞じゃないと。」というような、とてもわかりやすい訳詞だった。しかも、元の台本にあっても現代にそぐわないと思われる歌詞や台詞はばっさりと切り捨てて、新たに台本を作り直している。「魔笛」における少し差別的な表現は、これでいく分かは和らいでいる。「魔笛」やオペラそのものを21世紀に残すためには、こういうことも必要だというコンセプトでの演出だ。これには賛同できる。

 それにしても「魔笛」の演出はパターンが決まっている。勧善的フリーメーソン風にするかメルヘン風にするか、あるいは悪人なしの昼夜融合にするか。(今回はこの最後のパターン。)そんなにたくさんの「魔笛」を観たわけではないが、「こんな演出もあったのか!」と驚くような新味のある舞台に、映像も含めて出会ったことがない。(噂でも聞かない。)それでも「魔笛」はおもしろいし、何より音楽が最上に美しいので好きなのだが、なんだか実生活とは遠い閉ざされた範囲の中の物語という感じが拭えない。恋愛の駆け引きも、モーツァルトの他の作品に比べると、無いに等しい。

 だから、「魔笛」の公演に行くときは、音楽の良し悪しが感動の差につながるようで、歌手やオーケストラを選んで行くようにしている。(「フィガロ」だったら無分別に足を運ぶ。)今回は、まずオーケストラが大阪シンフォニカーというのが気になった。東京のオケ・ピットに大阪のオーケストラが入るなんて珍しいことだから、それだけで音楽的な期待が高まる。ただ、結果はちょっと劇場とオケの音がかみ合ってない感じで、在京のオケを使った方がもっとなめらかに響いたのではと思う。関西の舞台で大阪シンフォニカーがピットに入ったときはもっと満足できたから、オケそのものよりも、劇場(ホール)に対する慣れみたなものが関係するのかもしれない。

 歌手については十分だった。5月の新国立劇場の公演と同じ役を演じた菅英三子(夜の女王)や高橋薫子(パパゲーナ)も、余裕があった。五郎部俊朗(タミーノ)、黒田博(パパゲーノ)なども良く、弁者に勝部太を起用しているところなんか細かいところまで充実していた。

 それから、日本の団体にしては珍しく、三人の童子は本当にボーイソプラノの少年が演じた。若手のソプラノが演じることが多いが、やっぱり美少年の方がいい。深い意味は無い。

(7月12日 新国立劇場中劇場)

戻る