首都オペラ「ラ・ボエーム」
舞台への集中力というものは、耳に入る音楽の緊張感も大きな影響があると思うが、それと同時に目に見える情報も少なからず影響があると思う。たとえばホールそのものの空間、特に客席の広がりが感じられると舞台への集中感が減少する。客席数も関係するのだろうが、日本の多目的ホールは客席の空間が広く感じられるところが多いものの、東京文化会館や新国立劇場は客席に密閉感があって舞台への集中感が増す。それから、演出も関係あるだろが、舞台装置の置き方によっても集中感が変化すると思う。
首都オペラは数年前に「トゥーランドット」を観ただけなのだが、その時はどうも舞台への集中力が保てなかった。それは舞台装置のせいだと感じていた。そして今回「ラ・ボエーム」の舞台を観たが、また同じことを感じてしまった。何がどうなのかというと、舞台装置に閉鎖感も開放感も感じられず、舞台の空間にムダがあるように見える。それが、どうも観ている側の舞台への集中感を欠くように思えてくる。舞台が質素だというのではない。装置の配置の仕方とか照明の効果とかが、凝縮されない。こういったことは、私自身の感覚の問題かもしれないが、舞台の上に集中しようという努力を要するために、音楽への集中がおろそかになってしまうこともある。
1幕と4幕はガード下(橋の下)をロドルフォたちの生活の場に設定していたが、そのガードが舞台の3分の1ぐらいで切れている。残りの舞台空間が(大道具は置いているもの)私が観る限り空虚な感じがしてくる。ガード下という設定自体は、私としてはとても気に入った設定なので、できれば舞台を横切る長いガードを作ってもらって圧迫感を出してもらいたかった。それだけの予算をかけられないなら、少なくとも舞台の中央に置いてもらいたかった。2幕と3幕も同じように感じたが、2幕については群集の多さと衣装の派手さでいくらかカバーできた。
ただ、1幕と4幕の幕切れはパリのまばゆい夜景を鳥瞰で背景に映し出し、装置はすべて引っ込めて照明もおとし、すばらしい効果を得ていた。(装置を引っ込めるために中途半端なガードだったのかもしれない。)これはとても美しく、また「ボエーム」の雰囲気にぴったしの切なさも感じられ、いっそのこと全幕この背景のみで上演してもいいんじゃないのかな、とまで感じた。
増田宏昭指揮の神奈川フィルはもう少しプッチーニの旋律を楽しませてほしかった、という感じ。キャストは概ね満足。
(9月26日 神奈川県民ホール)
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