新国立劇場「トゥーランドット」

 「トゥーランドット」は最後のグランド・オペラと位置付けられているためか、ゼッフィレッリはじめ豪華絢爛な舞台が勝負みたいなところがあったが、今回の新国立劇場の舞台は、そういった面とは一線を画す、新しい感覚の「トゥーランドット」だった。しかも絢爛ではないとはいえ、スペクタル性には富んでいて、強力な音楽に劣らない舞台でもあった。演出はウーゴ・デ・アナ。

 舞台は全幕通して、舞台中央に置かれた巨大な球体のみ。この球体が三つに割れたり、回転したりする。これだけのことなので、文章にしてみても、写真にしてみても、(おそらくビデオにしてみても、)単なる抽象的な予算考慮簡略舞台かと思ってしまうかもしれない。しかし実際に舞台を観てみると、まずはその球体がとてつもなく巨大であることに驚いてしまう。そしてその巨大な球体が回転するだけで感心してしまうし、三つに割れてトゥーランドットが出てくる段になると、予想以上に壮大で感動してしまうぐらいである。そして群衆は黒づくめで、照明も白や青の寒色系。無国籍(または異次元)風の設定だが、役人側の人たちはどことなく中国を連想することもできる。極端な読み替えではないし、ひどく奇抜というわけではないものの、今までの「トゥーランドット」感を覆す、新しい感覚の舞台である。

 しかも人物の扱いも、舞台の見た目に埋没せず、きっちり処理していた。私としてはリューが一番気になるのだが、3幕では大いに目立つように舞台上の配慮がなされていた。舞台上の群衆も、客席も、リューの諦念と犠牲を十分に目の当たりにしてそれぞれの心に影響するようになされていた。そしてそれはトゥーランドットに対して一番大きく影響したことが、リューが血を流すことをもってトゥーランドットに暖かい血が流れ出すということで、表されていた。トゥーランドットが愛を知るのは、カラフの強引な口づけでも情熱でもなく、(それらは愛を確実にするものであって、)きっかけはリューでなのである。

 トゥーランドットも異次元風の舞台にあるにしては、早い段階から根底に人間的な感情をは持っていることを伺い知ることができた。2幕のカラフとの対決からして動揺を隠せないでいる。

 少し疑問があるとすれば、3人の大臣の処理だった。解釈上どのように扱ってもいいのだが、アクロバット的な格好で歌わせるのは、音楽的に完全さを保証できないのでは、と思う。

 トゥーランドットのアレッサンドラ・マルクは、身動きとれない演出なのに、声だけでよくトゥーランドットの人間らしさを出していた。リューの出口正子はさすがにこういう役はぴったし合っていた。カラフのアルベルト・クピードも安定していたし、菊池彦典の指揮もイタリアものでは安心して聴ける。

 オーソドックスに手堅い舞台を提供していた新国立劇場にしては、珍しく私好みのワクワクする舞台だった。

(9月24日 新国立劇場)

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