モーツァルト劇場「ペレアスとメリザンド」

 今となっては往年の名番組となってしまったFMの「オペラ・アワー」で、初めてドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」に接した時は、あまりの退屈さに最後まで聴き終えることができず、途中でスイッチを切ってしまった記憶がある。このオペラを映像も字幕も対訳もなしにラジオでいきなり聴くなんて、今さら考えても、初心者の自分には退屈であっただろうと思う。

 今でも初心者であることには変わりはないのだが、一度は舞台で観てみたいオペラでもあるので、万全の体制をとって今回の公演にのぞむことにした。私にとっての万全の体制とは、どれだけ予習して慣れるかではなく、いかにして眠らないようにするかである。まずは昼下がりのマチネ公演ではなく、夜の公演の日を選ぶ。そして、昼間からビールをあおって昼寝をする。途中で娘にアイスクリームを食べようと起こされたりするが、アイスを食べたあともまたひと眠り。十分昼寝したあとは、お風呂にサッと入ってさわやかになる。(長湯は逆効果。)そして会場に向かった。

 万全の体制で舞台にのぞむと、意外に出だしからおもしろくて音楽に引き込まれていく。しかし暑い夏の夕刻、しっかりと空調が効いて照明をおとした劇場で、ドビュッシーの静かで美しい音楽に満たされると、最高のリラクゼーション空間となってしまい、油断していた人はすぐに眠りにおちてしまう。私の前に座っているおじさんも、横に座っているお姉さんも、ぐっすり眠り込んでしまっていた。私のような対策をとっていないからだ。どういう事態になるか予測して対策を講ずるなんて、私のオペラ鑑賞も初心者から脱しつつあるのでは、とひとり感心する。なんだか少し違う気がするが。

 舞台は高くて古い塔を廻り舞台にのせて回しながら、その都度、泉や城の部屋の小さなセットを出して、各場面を視覚的にきっちり作っていた。こういうちょっと難しい作品は、場面転換が多いからといって観客の想像力や理解力に期待した抽象的な舞台よりも、今回のように見て分かるようにしてくれた方が助かる。

 原語上演ではなく訳詞上演であった。私としてはどちらでも気にしないのだが、日本語で歌われることによって、神秘的なメリザンドというよりは、ふつうに恋する人間のメリザンドというようなイメージとなっていて、ペレアスとの対話が一層ドキドキしてくるような効果があった。

 空席がかなり目立っていたのは、残念なような気もするし、この作品の認知度からすると仕方のないような気もする。しかし、舞台も半ばを過ぎると、キャストの好演もあって、眠りこける人もいなくなり、作品に引きずり込まれていくといった感じであったので、やはり空席は残念である。

(2002年7月13日 新国立劇場中劇場)

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