新国立劇場「無人島」
かなりおもしろくない話である。そもそも話の内容に無理がある。こういった作品が生まれた時代や上演された場所を考えると、仕方のないことかもしれない。しかし、(台詞から察するところ)10代半ばと幼児の姉妹が、海賊が出没するような無人島に取り残されて、13年間も健康に暮らし、しかも小ぎれいな身なりをしたままという設定は、そのままでは受け入れ難い。確かにマイアベーアも大航海時代の探検船に貴婦人たちが乗り込んでいるという信じられない設定をして、それが当時の観客には違和感がなかったのだから、どんなムチャな設定でも初演当時にはムチャと思われなかったのだろう。そういった作品を現代に上演するにはそれ相当の演奏や演出でのひねりが必要だと思う。ムチャな設定の作品でも、芸術的に評価されているからには、現代でも通じる本質が込められているのであって、そのまま上演したのでは時代のほこりがかぶって見えにくい本質を、現代人にも分かるように受け入れられるように、指揮者や演出家が表現することが、再現芸術では肝要だと思う。分かりにくければ時代設定や場所の設定を変えてもいいと思うが、時代も場所も変えずに現代的にコーディネートできれば最良である。そうでないと単に演奏技術の披露に終わって、感動の涙が流れない。
そういう意味で、この作品には演出の井原広樹がどう処理してくれるかが最大の関心であったのだが、私には小劇場を初演のエステルハージ家の宮殿にしてしまおうとしているだけにしか感じられなかった。帆船形の鏡を使って情景を変えたりするなどの工夫はあったが、全体的に作品をそのまま上演したという感じがして、フィナーレで器楽奏者にハイドンのような衣裳をつけさせて舞台上で演奏させたりと、どうも初演当時の雰囲気に支配されているような感じだった。もちろんプログラムのメッセージに井原さんが寄せている文章を読むと、この作品で訴えられている本質はなんなのかということはつかんでいるようだから、それを感じきれなかった私の鑑賞力や感受性の欠如が原因なのかもしれないが。
ハイドンのオペラは(交響曲もそうだが)風変わりな名前が多い。「無人島」というのもオペラらしからぬ名前だと思う。当時のヨーロッパとしては「無人島」という言葉にはエキゾチックな感覚があって、それでこのオペラもセリアになっているのかもしれない。決して椰子の木が一本生えているようなマンガチックなものではないのであった。
(2003年1月24日 新国立劇場小劇場)
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