時間論「唯物論的時間Ⅰ」の概要


「唯物論的時間Ⅱ」より

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作成日 2003/5/3

「存在」を、ありのままにとらえても、「運動」としてとらえても、とらえているの
は、主観であって、「存在」自体ではない。あくまでも、「存在」をとらえている主観
は、「存在」とは別のものである。主観無しに、「存在」をとらえるということは、あり
えない。「存在」をありのままにとらえるには、とらえているのは主観であるということ
を自覚する以外にない。「存在」を純粋に客観的にとらえることは、不可能である。

現在における「存在」の状態と現在の時刻(時点)における「存在」の状態は、異な
る。現在における「存在」の状態は、「動いている状態」つまり「絶対静止ではない状
態」であるが、現在の時刻における「存在」の状態は、「絶対静止の状態」である。現在
における「存在」の状態、つまり、「動いている状態」、「絶対静止ではない状態」
が、「存在」本来の基本的状態であるとすれば、時間は不必要となる。なぜなら、「存
在」が存在していれば、それは「動いている」のである。「存在」は、時間の経過ととも
に、あるいは、時間が経過することによって、「動く」のではなく、「存在」それ自体に
よって「動く」のである。つまり、「動く」ということは「存在」に含まれている。一
方、「存在」を時刻でとらえると、「存在」の状態は「絶対静止の状態」である。「存
在」が「動く」ためには、次の時刻へ進まなければならない。つまり、時間が経過すると
ともに、あるいは、時間が経過することによって、「動く」状態が生ずる。「運動」にお
いては、「存在」を時刻でとらえる。「存在」が「動く」ととらえる。つまり、時間の経
過とともに、あるいは、時間が経過することによって、「存在」が「動く」ととらえる。
したがって、「運動」においては、時間が必要となる。このように、とらえ方によって、
不必要になったり、必要になったりするということは、時間は客観的実在ではなく、主観
的なものであるといえる。しかも、現在における「存在」をありのままにとらえ、「存
在」本来の基本的状態は「動いている状態」であるとすると、時間は不必要になる。しか
し、時間が必要となる「運動」においては、「存在」を時刻でとらえるが、時刻で、厳密
に、現在における「存在」をありのままにとらえることは不可能である。よって、「運
動」は、現在における「存在」をありのままにとらえることより主観的である。

「存在」をありのままにとらえた場合、現在における「存在」の状態が「絶対静止」の
状態でない限り、「存在する」と「動く」は、全く同じ意味である。

仮に、「現在」を、「ある直線上を一方向に動いている点」とすると、「時刻」は、
「その直線上に静止している点」である。この両者は、決して等しくはならない。「動い
ている点」が「静止している点」を通過する際も、この両者は等しくはない。「動いてい
る点」は、決して止まることはない。「動いている点」が「静止している点」を通過する
ことは、「動いている点」と「静止している点」の状態が同じであることにはならな
い。「動いている点」は常に「動いている」。「静止している点」は常に「静止してい
る」。つまり、両者は常に異なる状態にある。「動いている点」が「静止している点」を
通過する際も、両者は異なる状態にある。通過することは、同じ状態であることにはなら
ない。


この場合、「時刻」である「静止している点」は、直線上で「長さ」を持たないの
で、「時刻」である「静止している点」が直線上に隣接しないで無限個並んでも直線には
ならない。



二つの離れた位置としての点、位置A、と位置Bが、あるとする。位置Aと位置Bの間に
は、無限個の位置がある。さらに、位置Aと位置Bの間の距離が無限小であるとする。
それでも、なお、位置Aと位置Bの間には、無限個の位置がある。
位置が「長さ」を有している限り、その位置は、無限個の位置を有することになる。よっ
て、位置が、一個の位置であるためには、「長さ」を有してはならないことになる。
このことは何を意味しているか。つまり、点としての位置も、主観外に量を持たないと
いうことを意味している。

点としての位置も、主観外に量を持たない訳であるから、当然、体積、面積、長さ、を持
たない。点としての位置が、無限個並んでも、線にならないのは明白である。点は量を
もたない。つまり、体積、面積、長さ、を持たないものであるから、点が無限個隣接して並んで
も、点のままである。点が無限個隣接して並んだものを、同一の点ととらえるのは錯覚ではない。
実際、無限個隣接して並んだ点と一つの点は等しい。

つまり、位置Aと位置Bの間に距離が無くても、その間に、無限個の位置がある。という
ことと、位置Aと位置Bは、同じ位置である。ということは、等しいのである。これは、
点としての位置が、主観外に量を持たないことによる。


これらは、線としての位置にも当てはまることはいうまでもないが、面としての位置、面
による立体としての位置にも当てはまる。なぜなら、面としての位置における線は、長さ
を持つが、幅を持たないからである。面による立体としての位置における面は、広さを
持つが、厚さを持たないからである。したがって、面としての位置、面による立体として
の位置が無限個重なったものと、一つの、面としての位置、面による立体としての位置は
等しい。これは、面としての位置、面による立体としての位置が主観外に量を持たない
ことによる。

ここで、点、線、面、面による立体、というのは、全て概念であって、それら自体は量を
持たない。有なのに無、無なのに有。つまり、矛盾している。また、長さ、面積、体積、
というのは、全て、量の表し方であって、それら自体は量を持たない。ということを付け
加えておく。


要するに、位置とは、主観外に量を持たない。主観外に量を持たないということは、主観
外の「客観的実在」ではないということである。よって、位置は、主観内のものであり、
しかも、矛盾した概念なのだ。




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