観念論Ⅲ


アイデアリズム

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作成日 2003/5/3

理想主義または観念論と訳される。元来プラトンのイデアの説に由来する思想の事である。イデアとは論理的に言えば普遍的な概念の事であるが、プラトンの思想にあってはそれが認識主観の外に実在すると考えられる。したがってイデア説は概念実在論または観念実在論であるが、これをアイデアリズムと名づけ、観念論と訳する。このイデアはまた道徳的・審美的には理想的形態のことであるから、アイデアリズムを理想主義とも訳すのである。このようにアイデアリズムの元来の意味は概念実在論であるが、後にはその意味が広げられて、主観を重んずる思想を広くアイデアリズムとよぶ。

広義のアイデアリズムはこのように主観の優位を主張するものであるが、その主観が個人の主観である場合にはアイデアリズムは主観的観念論とよばれる。しかしこれは個人的観念論と名づける方が適当である。この種の思想の代表的なものは古代ギリシアにおけるプロタゴラス(「人間は万物の尺度なり」という説)、近世イギリスのバークリー(「存在即知覚」の説)等である。仏教において事物の存在は妄分別(誤った判断)の結果であるとする主張もこの種の個人的観念論に属するといってよいであろう。しかし仏教特に唯識系統の思想にあっては妄分別の底に無意識なる心作用を認めるので、その限りでは単純な個人的観念論とは異なる。

優位をしめる主観が単なる個人的のものではなく、あらゆる経験の基礎となるような普遍的主観である場合には先験的観念論が成立する。カントの批判哲学はこのような観念論を含んでいる。もっともカントの思想は主観に対する物自体の実在を認めているので、その限りでは実在論の要素をも含んでいる。

カント思想における物自体を消去して主観に完全の優位を与えようとしたのがドイツ観念論の種々の体系である。フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、ショーペンハウエル等それぞれ異なった特徴を持つが、何れも主観に絶対的な優位を与えるもので、いわば主観一元論ともいうべきものであり、超個人的観念論である。このうちヘーゲルの思想にあっては絶対的な優位を持つ主観は超個人的な絶対精神であり、それが弁証法的に自己運動して世界を造りだす。したがってヘーゲルの思想は絶対観念論である。ショーペンハウエルの思想にあっては絶対の優位をもつ主観は盲目的な生命意志である。これは個人的な意志ではなく、宇宙のあらゆる現象の根源となる普遍的な意志である。物質も食物も動物も人間もすべてこの唯一の意志のあらわれとして説明される。それ故彼の思想はヘーゲルと同様に絶対観念論の一種という事ができる。ただしヘーゲルの思想が主知的であるのに対して、ショーペンハウエルの思想は主意的である。

プラトンのイデア説は観念実在論であって単純な主観の優位を唱えるものではない。しかし実在する観念は理性という超個人的主観の能力によって認識されるものである。したがって観念実在論は超個人的主観の優位を認める超個人的観念論となる。ただプラトンのイデア説が認識される普遍的概念に重点をおくのに対して、ドイツ観念論は認識する作用の方に重点をおいて考えているところに両者の相違がある。したがって同じ超個人的観念論であるが、ドイツ観念論が作用的であるのに対して、プラトンのイデア説は実体的である。この実体的超個人的観念論は中世にあってはスコラ哲学の正統思想と認められたものであるが、近世以後にもその伝統は根深く生き残っている。例えばカント思想に対抗して独自の論理学を築いたボルツァーノは命題自体、概念自体の如きものが単に認識主観の作用ではなくて、認識の対象として実体的に実在すると主張している。また現在の記号論理学の創始者たるフレーゲも各種の論理記号に対応する命題や函数が実体的に実在すると主張している。これらは何れも実体的超個人的観念論である。

西洋思想における観念論は上記の如く客観に対する主観の優位を主張するものであるから、それは主観と客観との二元的対立を前提としている。しかしこの二元論は必ずしも不可欠の前提とはいえない。既に近世初頭においてスピノザはこの二元論を克服するような一元論的形而上学を唱えている。また近代ではフッサールの現象学は主観と客観との対立を意識の認識作用の二つの要因にすぎないものと考えてその二元論を解消しようとしている。その場合主観と客観とはいわば磁石の南極と北極の如きものにすぎず、何等独立した二つの存在ではないと考えられる。このようにフッサールの現象学は二元論を克服するが、意識の中にプラトン的なイデアを認めるので、それは再び超個人的観念論の色彩をおびることとなる。

二元論を真に克服する思想は東洋特に仏教の中に見る事ができる。ただし唯識系統の思想は観念論の傾向をおびている。すなわち唯識説は文字通り一切はただ意識表象であると主張する。また禅は悟りの体験を重んずるものであるが、その根本には「心外無法」という唯識的な主張がみられる。その限りで唯識の影響下にある大乗仏教は観念論の色彩を持つということができる。しかし唯識にしてもまた禅にしても色とか心を実体的のものと考えるわけではなく、また認識主観を絶対的なものと考えるわけではない。したがって悟りの境地にあっては、客観に対立する主観としての心の如きものを絶対化することをやめて、主観・客観を相互依存的なものとしてとらえる。それ故「心外無法」であると共に「法外無心」であり(『伝心法要』)、心と物とは相即する。かくて「物我一如」となり、これを個人についていえば「身心一如」となる。それ故身体の活動を離れた単純に主観だけの心作用もなく、心作用を離れた単純に客観だけの身体活動もない。それ故人間のあらゆる営みは身心相即して営まれるものと考えられる。仏教における行とはかくの如きものである。 ここにおいて主観・客観の二元論は完全に克服される。したがって仏教にあっては西洋思想にみられるような純粋の観念論は存在しない。


現代哲学事典 山崎正一+市川浩編 講談社現代新書 より




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