観念論Ⅰ


観念論と唯物論

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作成日 2001/1/1

「物質に対して観念的なものの根源性を主張する立場。①イデア(プラトン)や宇宙的な
精神(ストア学派)を世界の原理とする形而上学。カント以後のドイツ観念論(ヘーゲル
の絶対精神の自己展開)等。②バークリーのように、物質的世界の客観的実在性を否定し、
世界は終極的には神の観念にすぎないと見る立場。③カントおよび新カント学派の認識論上
の先験的観念論。」 広辞苑 第5版より

「観念論は心だけが存在するという理論である。明らかに観念論は二元論と両立できない。
と言うのも、二元論は心と物理対象の両方が存在するという理論だからである。『物理対象
は存在しない』ということで観念論者が言わんとすることは、誤解を招くおそれがあり、
たいてい誤解されている。どんな観念論者でも、テーブルやレンガ、木片、そのほか普通に
物理対象とされている物が存在していないなどとは言わない。ただ、物理対象について事実と
見なされている次の二つのことを認めないのである。ひとつは、物理対象が知覚されずに
あるいは思考の対象とならずに存在しうること。もうひとつは、それが物質的であること、
つまり『物質』とよばれる実体からできていることである。おそらく観念論者は物理対象に
不変の性質を認めず、この意味で物理対象の存在を認めないのである。しかし、普通なら物理
対象があるとされる視覚や触覚上の場所には、実は空虚か隙間しかないのだ、などと主張して
いるのではもちろんない。私の知るかぎりそんなことを言った哲学者はいない。観念論の中心
をなす主張は、『物理対象は心から独立に存在しえない』というものである。心がなければ、
いわゆる物理対象も存在できないことになる。存在するものは意識のなかだけに存在できる。
それゆえ、常識的ないし素朴な見方から物理的とされているものは、実は心的なものと見なさ
れる。物理的なものは心的なのである。」「心と身体の哲学」S.プリースト著 勁草書房 より

観念論者は唯物論を打破できない。なぜなら、人間は主観から抜け出すことができないから
である。もし、主観から抜け出すことができれば、「やはり主観から独立した客観的実在は
なかったよ。だから唯物論は偽だ。」といえるのだが。

一方、唯物論者も観念論を打破できない。これも、人間が主観から抜け出せないことによる。
もし、主観から抜け出すことができれば、「やはり主観から独立した客観的実在があったよ。
だから観念論は偽だ。」といえるであろう。人間は主観から抜け出せない。ゆえに、今後も
観念論と唯物論は生き続けるであろう。




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