過去


「客観的過去」と「思いこみ」

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作成日 2000/3/24

唯物論の立場で「過去」について述べる。

我々は、「記憶」に対応した「客観的過去」があると思いこむ。
我々は、「歴史、新聞などにおけるデータ」の「認識」あるいは「記憶」に対応した「客観的過去」
があると思いこむ。
我々は、脳内にある「記憶」に、「この記憶に対応した客観的過去があるにちがいない」という
「思いこみ」を結びつける。
我々は、脳内にある「歴史、新聞などにおけるデータ」の「認識」あるいは「記憶」に、
「この認識あるいは記憶に対応した客観的過去があるにちがいない」という「思いこみ」を結び
つける。
その「思いこみ」こそが「客観的過去」の正体だと考える。
「記憶」も「歴史、新聞など」も「客観的過去の思いこみ」も、すべて「現存(現在の存在)」、
つまり、「実際に存在し、動いているもの」である。

また、出来事、つまり、一つのあるいは複数の動いている物体に反射した光は、遮るものがない
かぎり進み続ける。この進み続ける反射した光を「過去」と呼べるだろうか。この光はまぎれもなく
「現存(現在の存在)」である。

このホームページの「唯物論的時間」でも述べたが、客観的過去があるとするならば、絶対静止の
状態でなければならない。これは、動いている物体を「運動(点時刻表示)」でとらえていることに
よるものだ。そうすると、おかしなことになってしまう。絶対静止な訳だから、時間間隔はゼロで
ある。ゼロつまり無の中に、「存在」が有ることになってしまう。かといって、時間間隔のある
客観的過去というのもイメージのしようがない。
現在における存在の状態は動いている状態である。現在の時刻(時点)における存在の状態は
絶対静止の状態である。無論、過去の時刻(時点)における存在の状態も絶対静止の状態である。
客観的時間があるとする場合、動いている物体を「運動(点時刻表示)」でとらえる訳だから、
後者の方である。つまり、客観的時間があるとすると前述のとおり、おかしなことになってしまう
のである。要は、「運動」を「動いている物体」の本質ではなく「データ」として考えることで
あろう。




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