根拠と実在根拠
「唯物論的時間Ⅱ」より
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作成日 2002/4/23
「観念論と実在論を両立させることができれば、認識論上の「認識の対象」に関する問題
の内の一つは、無くなる。そのためには、観念論を否定せず、観念論から脱却し、実在論
が成り立つようにしなければならない。
まず、現象を含めた主観を客観的実在とする。そして、その背後にある物自体を客観的実
在とする。
観念論を否定しないとすれば、物自体と主観とは、全く無関係ということになるから、物
自体と主観は、それぞれ、別々の客観的実在であるということになる。よって、物自体と
主観のみでは、実在論が成り立たなくなってしまう。なぜなら、観念論によれば、現象の
背後にある物自体は、認識することができないからである。物自体と主観のみでは、物自
体を、「物自体に関する現象」に対応させることができない。つまり、物自体と「物自体
に関する現象」が無関係ということになってしまう。そうすると、客観的実在は何らかの
仕方、程度において認識されうるとする実在論を否定してしまうことになる。
そこで、実在論を否定しないため、物自体と「物自体に関する現象」を対応させるに
は、「物自体に関する情報」があるとする。「物自体に関する情報」があるためには、必
ず物自体が無ければならない。なぜなら、物自体がなければ、「物自体に関する情報」は
生まれようがない。そして、「物自体に関する情報」は、物自体ではなく、主観でもな
い。としなければならない。「物自体に関する情報」が物自体でもあり、主観でもある。
とすると、観念論を否定することになってしまう。「物自体に関する情報」が、物自体で
あり、主観ではない。あるいは、物自体ではなく、主観である。とすると、実在論を否定
することになってしまう。さらに、実在論の立場上、「物自体に関する情報」は、客観的
実在であるとする。そして、「物自体に関する情報」が「物自体に関する現象」となる。
あるいは、「物自体に関する情報」が「物自体に関する現象」を生みだす。とすれば、物
自体は、認識の対象となりうる。
なぜなら、
「物自体に関する情報」が「物自体に関する現象」となる場合、物自体が無ければ、「物
自体に関する情報」は、ありえない。しかし、「物自体に関する情報」が無くても、物自
体はありうる。そうしないと、物自体が主観から独立していることにならない。つまり、
実在論を否定してしまう。したがって、物自体は「物自体に関する情報」の根拠になる
が、「物自体に関する情報」は物自体の根拠にはならない。さらに、「物自体に関する情
報」が無ければ、「物自体に関する現象」はありえないが、「物自体に関する現象」が無
くても、「物自体に関する情報」は、ありうる。そうしないと、「物自体に関する情報」
が主観から独立していることにならない。つまり、実在論を否定してしまう。よって、物
自体と「物自体に関する情報」と「物自体に関する現象」は関係がある。ここで、「物自
体に関する情報」について付け加えておく。「物自体に関する情報」の一部は、他の部分
の根拠にはならない。また、他の部分は、その一部の根拠にはならない。その一部が無く
ても、他の部分はありうるし、他の部分が無くても、その一部はありうる。これによっ
て、その一部と他の部分は無関係であるかというと、決してそうではない、関係はある。
なぜなら、その一部も、他の部分も、同じ「物自体」に関する情報だからである。
「物自体に関する情報」が「物自体に関する現象」を生みだす場合、「物自体に関する情
報」が無ければ、「物自体に関する現象」は、ありえない。しかし、「物自体に関する現
象」が無くても、「物自体に関する情報」は、ありうる。そうしないと、「物自体に関す
る情報」が主観から独立していることにならない。つまり、実在論を否定してしまう。し
たがって、「物自体に関する情報」は「物自体に関する現象」の根拠になるが、「物自体
に関する現象」は「物自体に関する情報」の根拠にはならない。よって、「物自体に関す
る情報」と「物自体に関する現象」は関係がある。この場合、物自体と「物自体に関する
現象」との関係は、どうかというと、物自体が無ければ、「物自体に関する現象」は、あ
りえない。しかし、「物自体に関する現象」が無くても、「物自体に関する情報」の有無
にかかわらず、物自体は、ありうる。そうしないと、物自体が主観から独立していること
にならない。つまり、実在論を否定してしまう。したがって、物自体は「物自体に関する
現象」の根拠になるが、「物自体に関する現象」は物自体の根拠にはならない。よって、
物自体と「物自体に関する現象」は関係がある。さらに、この場合、物自体と「物自体に
関する情報」との関係は、どうかというと、「物自体に関する情報」の有無にかかわら
ず、物自体は、ありうるが、物自体が無ければ、「物自体に関する情報」は、ありえな
い。そうしないと、物自体が主観から独立していることにならない。つまり、実在論を否
定してしまう。したがって、物自体は「物自体に関する情報」の根拠になるが、「物自体
に関する情報」は物自体の根拠にはならない。よって、物自体と「物自体に関する情報」
は関係がある。
要するに、この両者の場合、「物自体に関する現象」がある際、必ず、「物自体に関する
情報」と物自体がある訳であるが、「物自体に関する現象」があるから、「物自体に関す
る情報」があり、「物自体に関する情報」があるから、物自体があるのではなく、物自体
があるから、「物自体に関する情報」があり、「物自体に関する情報」があるから、「物
自体に関する現象」があるのである。
以上の事より、物自体と「物自体に関する情報」と「物自体に関する現象」は、関係があ
るからである。
したがって、「物自体」という客観的実在を根拠とする「物自体に関する情報」という客
観的実在は、「物自体に関する現象」の根拠になる。という、仕方あるいは程度によっ
て、物自体が認識の対象となりうる。そうすれば、実在論を否定せずに済む。
さて、これによって、観念論を否定することになるかというと、そうはならない。
なぜなら、
物自体と「物自体に関する情報」は、別々の客観的実在だからである。物自体と「物自体
に関する情報」は、別々の客観的実在でなければならない。物自体でもあり、「物自体に
関する情報」でもある。ということはありえない。物自体であれば、それは「物自体に関
する情報」たる資格を失う。「物自体に関する情報」であれば、それは物自体たる資格を
失う。「情報」には、次の二つの性質がある。一つは、情報は、それ自体に関する情報に
はなりえないということ。もう一つは、情報の対象になるものは、その情報自体を含まな
いということである。これによると、物自体が情報であるためには、その対象が「その物
自体」以外のものでなければならないことになる。したがって、物自体が「物自体に関す
る情報」になることはできない。また、「物自体に関する情報」が物自体であるために
は、それが情報の対象となっている「物自体」の一部でなければならないことになる。
情報の対象になるということは、その情報ではなくなる。つまり、「物自体に関する情
報」ではなくなる。したがって、「物自体に関する情報」が物自体でもあるということは
ありえない。さらに、物自体と「物自体に関する情報」を包括的にとらえ、「大きな物自
体」とした場合はどうかというと、「大きな物自体」の一部が「大きな物自体に関する情
報」になるとすると、「大きな物自体に関する情報」の対象となる「大きな物自体」に
は、「情報になっている大きな物自体の一部」は含まれない。
以上の事より、「物自体」と「物自体に関する情報」は別々の客観的実在である。
したがって、認識の対象たる「物自体に関する現象」になる「物自体に関する情報」、あ
るいは、認識の対象たる「物自体に関する現象」を生みだす「物自体に関する情報」
は、「物自体」ではない。つまり、「物自体」は認識しえない。また、「物自体に関する
情報」が「大きな物自体」の一部であり、「物自体に関する情報」ではない。としてしま
うと、「物自体に関する情報」がないということであるから、「物自体」は情報の対象で
はなくなる。つまり、「大きな物自体」の一部が認識の対象になるが、「大きな物自体」
の中の「物自体」は認識の対象ではなくなる。つまり、「物自体」は認識しえない。とい
うことにおいて、観念論を否定せずに済む。
このように考えると、観念論と実在論は両立する。
これらは、
Aは、AとBとの関係の根拠になる。Bは、AとBとの関係の根拠になる。
AとBとの関係は、Aの根拠にならない。AとBとの関係は、Bの根拠にならない。A
は、Bの根拠にならない。Bは、Aの根拠にならない。なぜなら、AとBは、別々のもの
であるが、全くの無関係であるとは言い切れない、必ず何らかの関係があると考えられる
からである。
ということによる。
さて、観念論と実在論を両立させるには、
認識の対象となりうる「物自体」を客観的実在とする。
認識の対象となりうる「物自体に関する情報」を客観的実在とする。
「物自体に関する現象」を含めた主観を客観的実在とする。
これらは、それぞれ関係はあるが、それぞれ別々の客観的実在であるとする。
としなければならない理由は既に述べた。
実在論から逸脱しないためには、これらのみを客観的実在として認める。その際、ただ単
に、「客観的実在」では、どの「客観的実在」の、どの部分を指すのか明確ではないの
で、「客観的実在」のうちのどれかを「その客観的実在」と具体的に指定すべきである。
当然、ここでいう「客観的実在」とは、「全ての客観的実在」という意味ではなく、「認
識の対象となりうる客観的実在」か、あるいは、「客観的実在としての主観(現象を含
む、認識をする主観)」のことを指す。「全ての客観的実在」が、「全ての客観的実在に
関する現象」になる。あるいは、「全ての客観的実在に関する現象」を生みだす。という
ことはありえない。なぜなら、現象となっている、あるいは、現象を生みだしている客観
的実在以外にも客観的実在がなければならないし、また、客観的実在としての主観自体は
現象となりえないからである。そして、「その客観的実在」以外のものは、徹底的に疑う
べきである。
そのためには、
「その客観的実在」以外のものは、どんなものであるのかわからないのであるから、「そ
の客観的実在」は、それに、「その客観的実在」の「実在根拠」をあたえるべきではな
く、また、それの「実在根拠」になるべきではない。「その客観的実在」の「実在根拠」
は「その客観的実在」それ自体のみであり、さらに、「その客観的実在」それ自体を「実
在根拠」としているのは「その客観的実在」のみである。「客観的実在でないもの」に
は、「実在根拠」は無く、「客観的実在でないもの」は「実在根拠」になりえない。つま
り、「客観的実在」にのみ「実在根拠」があり、「実在根拠」になりうるのは「客観的実
在」のみである。
「実在根拠」=それ自体が実在する根拠。
としなければならない。
そうしないと、「客観的実在でないもの」が「客観的実在」になってしまう可能性と「客
観的実在」が「客観的実在でないもの」になってしまう可能性、さらに、「客観的実在で
ないもの」が「客観的実在」の「実在根拠」になってしまう可能性と「客観的実在」が
「客観的実在でないもの」の「実在根拠」になってしまう可能性がでてくるからである。
つまり、実在論から逸脱してしまう可能性がでてくるからである。
上の条件を満たすには、
「客観的実在」=「現在の客観的実在」=「現在の存在」=「存在」=「実在根拠」
としなければならない。
なぜなら、主観外の「過去の客観的実在」はそれに関する現象を生みださない。よって、
主観外の「過去の客観的実在」は認識の対象になりえない。また、過去の「客観的実在で
ある主観」は認識しようがない。よって、過去の「客観的実在である主観」は認識の対象
になりえない。認識の対象になりえないものは、「客観的実在」とすべきではない。認識
の対象になりえないものを、「客観的実在」としてしまうと、実在論から逸脱してしま
う。さらに、「物自体に関する情報」が「物自体に関する現象」になる場合、「物自体に
関する情報」は、「物自体」の根拠にならないのであるから、過去の「物自体」の根拠に
もならない。「物自体に関する情報」が「物自体に関する現象」を生みだす場合、「物自
体に関する現象」は、「物自体に関する情報」の根拠にならないのであるから、過去の
「物自体に関する情報」の根拠にもならない。「物自体に関する情報」は、「物自体」の
根拠にならないのであるから、過去の「物自体」の根拠にもならない。つまり、認識の対
象になりうるものは、常に、現在の「物自体」と、現在の「物自体に関する情報」であ
る。そして、「物自体に関する情報」というのは、常に、「現在の物自体」に関する情報
である。ということになる。これらは、観念論を否定する実在論にも当てはまる。当ては
まらないとすれば、主観外の「客観的実在」が主観から独立していないということにな
り、その実在論は、実在論から逸脱してしまう。
以上の事より、「過去の客観的実在」を「客観的実在」とすべきではない。これは、観念
論を否定する実在論においても、当てはまる。当てはまらないとすれば、
その実在論は、実在論から逸脱してしまう。」「唯物論的時間2 第2章 過去」より
ここにおける「A」と「AとBとの関係」と「B」についての記述であるが、これは、
はっきりいって変だ。例えば、この記述によると「A」「B」ともに無ければ、「AとBと
の関係」も消滅してしまうことになる。「A」と「B」とをつないでいた空間は依然として
存在しているのに。この記述が変なのは、純粋に客観的でなければならないのに、
主観的作業が含まれているからだ。「AとBとの関係」という記述は十分その臭い
がする。
しかし、それがこの論文の致命傷とならないのは、「あるもの」と「他のもの」は空間に
よってつながっていて必ず関係があることと、ここにおける「実在根拠」に関する記述が
正しいことによるものであろう。
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