唯物論Ⅰ


唯物論と観念論

戻る

作成日 2001/1/1

「精神に対する物質の根源性を主張する立場。従って物質から離れた霊魂・精神・意識を
認めず、意識は高度に組織された物質(脳髄)の所産と考え、認識は客観的実在の脳髄
による反映であるとする。唯物論は古くインド・中国にも見られ、西洋では古代ギリシャ
初期の哲学者たち以来、近世の機械的唯物論(特に18世紀のイギリス・フランスの
唯物論)やマルクス主義の弁証法的唯物論を経て、脳科学に基礎を置く現代の創発的唯物論
に至るまでさまざまな形態をとって、哲学史上絶えず現れている。」 広辞苑 第5版より

「唯物論とは、何かが存在するならそれは物理的であるとする理論である。たとえば、物理対象
だけが存在するという主張や、物理的出来事だけが存在するという主張も、ともに唯物論の
テーゼである。『物理対象や物理的出来事は、心的性質や抽象的性質など物理的でない性質を
もつこともありうる』として、やや弱い形でこの学説が主張されることがしばしばある。だが、
その場合でさえ、物理的でないとされている性質は、物理的なものの存在に論理的に依存して
いると主張される。これまで『物理的』という言葉が異論の余地なく定義されたことはなかった
が、それでも何かが物理的であるならそれは時空間的であるとされている。さらに、物理対象は
形、大きさ、固さなどの性質を本質的にもっており、運動できるものとされる。これについては
もっと議論の余地があるのだが、ふつう唯物論者は物理的なものは『物質』と呼ばれる実体から
構成されていると主張する。たしかに『唯物論』という用語は、『存在するものはすべて物理的
だ』とする理論だけでなく、『物質は実在する』という理論を指すために使われている。
唯物論は正しいのだろうか。われわれは単に非常に複雑な物理対象にすぎないのだろうか。
まずありがちな誤解を解いておく必要がある。はじめて唯物論のことを聞いた人は、次のように
言うことがしばしばである。『私は考えるし、知覚するし、感情もある。だから私が単なる複雑
な物理対象にすぎないということはない』。だが、人間は考えるという事実を述べても、唯物論
に対する的確な反論とはならない。どんな唯物論者でもこの事実を否定することはまずないだろう。
あなたや私、いやほかの誰であれ、われわれはみな、思考・知覚・感情・心的イメージをもって
いることを認めているが、唯物論者もそうなのである。唯物論者は『われわれが考える』という
ことは否定していない。唯物論者が言わんとするのは、『われわれの思考は物理的だ』ということ
である。われわれが営む心的生活は、一連の物理的出来事である。最新の唯物論にしたがうなら、
それは脳のなかの電気化学的プロセスである。物体は考えることができる。あなたも私も、その
ほかすべての人も、考える物体なのである。」「心と身体の哲学」S.プリースト著 勁草書房 より

唯物論にも色々あるが、私が身を置きたいのは常に定説とされるものである。要するに節操
がないのである。ちなみに、このホームページの宇宙論、「宇宙の構造について」は宇宙論
であると同時に私なりの唯物論でもある。

唯物論は真であると思うのだが、観念論を打破することはできない。なぜなら、人間は主観
から抜け出すことができないからである。人間は主観から抜け出せないようにつくられている。
どんなに知恵を絞っても観念論を打破できない。一方、観念論者も、なぜ唯物論を打破できない
かというと、これも人間が主観から抜け出せないことによる。今後、唯物論者と観念論者が
どんなに知恵を絞りあっても、唯物論と観念論は生き続けるであろう。




ご意見ご感想等ありましたら下記へメールをください。
asanami@mxb.mesh.ne.jp


戻る