ミクロとマクロ


micro; macro

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作成日 2003/3/22

微視的と巨視的という機能的な概念の対立である。一般的には、個と全の発想に近いが、物理的な局面では、もう少し限定された意味をもっている。つまり古典理論では、ミクロは統計力学上の個別粒子を、マクロは統計力学の対象そのものを指し、量子力学との関連では、量子力学の視点をミクロ、古典力学の視点をマクロと呼ぶことが多い。

真中に小さな穴の開いたシキリのあるお盆の片側の部屋(A)に、豆粒が沢山入っているとする。もう一方の部屋(B)は空である。今、お盆をランダムにゆすってやると、豆粒は、いろいろな振舞いをするが、中にはシキリの穴を通ってBの部屋に転がり込むものも出てくる。再びAに戻るものもあるだろうが、実際上AとBとにある豆の数は、時間の経過とともに、同数に近付く、と考えられる。

このように、個々の豆粒の振舞いは無視して、全体の平均的な振舞いを調べる視点は、19世紀に、熱現象を主体に熱力学という形で発展し、数学的定式化を生んで統計力学とも呼ばれるに至った。これはまたしばしばマクロな視点と見られる(言うまでもなく、特定の豆粒の運動を時間経過に従って追跡するのはミクロな視点である)。

この二つの視点に関して、哲学的に重要な問題の一つは、マクロに把えた現象では、時間の経過と現象との間に不可逆性があるのに対し、ミクロでは、そうではない、という点である。個々の豆粒については、時間の経過に対して状態Pから状態Qに移ることも、QからPに移ることも可能であるが、豆粒の系全体の振舞いとして把えると(時間経過を充分長くとる限り)、PからQか、QからPかのどちらか一方しかあり得ない。ここに、時間についての一つの難問が現われる。

一方、古典力学と量子力学との関連では、いわゆる観測の問題が、ミクロとマクロの対立として浮かんでくる。量子力学の対象は素粒子であって、肉眼では見えない(もっとも、豆粒様の素粒子像は、素粒子概念を正しく把んでいるとは言えないが)。したがって素粒子を実験的に追跡するとき、われわれが実際に観測するのは、素粒子と相互干渉するマクロな装置である。ミクロな素粒子の状態・振舞いと、マクロな装置の状態・振舞いとが、一対一に対応することが保証されれば、装置のある状態を見て、素粒子のある状態を識ったと言えるが、原理的に言って、この保証がないのである。この間のギャップをどう埋めるかが、観測の問題と呼ばれるが、フォン・ノイマンらの努力にもかかわらず、十全な解決はまだ得られていない。

マクロとミクロの問題は、もちろん、このほか、社会学や経済学の分野にも考えられるが、最も哲学的示唆を含む物理学に焦点を絞ってみた。


現代哲学事典 山崎正一+市川浩編 講談社現代新書 より




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