写真の時間論


哲学詩

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作成日 2015/4/1

写真の時間論



ここに父の遺影がある。

父は一昨年他界した。

思えば栄光とは縁のない、かといって平凡でもない数奇な一生だった。

毎日朝晩拝む。

この写真は父の生きた証だ。

弟の結婚式の時の写真を加工して引き伸ばしたものだ。

一流ホテルの小ホールでの質素ないい結婚披露宴だった。

この写真が父の根拠か、父がこの写真の根拠か。

あの時が現在(いま)だった時は間違いなく父は生きていた。

正装して披露宴にいた。生々しく実在していた。

しかし、現在(いま)は今だ。あの時はもう通り越した。

私の記憶に鮮明に焼き付いていても、

その記憶に対応する客観的過去はもはや無い。

あの時が現在(いま)でなくなった時、あの時の父は消滅した。

あの時の父はもはやいない。



あの時に生々しく実在していた披露宴の面々ももはや消滅した。

しかし、あの時の面々はあの時から今に変わって、生々しく実在しているのだ。

あの時から現在(いま)が今になった時、今において生々しく実在している。

披露宴の写真は、

あの時の披露宴にいた面々の根拠なのではないかと問う人がいる。

写真こそが客観的過去の根拠ではないかという訳だ

しかし、そうではない。

被写体あっての写真だ。

被写体が写真の根拠なのだ。

そして被写体は過去となり消滅する。

過去の被写体はことごとく消滅し、

被写体は今となり、ことごとく変化する。

そして、ついには現在(いま)の存在となる。

披露宴の写真の根拠は、

現在(いま)の今のまさに今ある散り散りになった面々の実在なのである。

写真は過去の根拠ではない。

過去が写真の根拠なのである。

そして、あの時の過去はすでに消滅した。

そう、現在(いま)ある披露宴の写真の根拠は、

写真の対象となった、

まさしく目まぐるしくうごめく、現在(いま)の今にある存在なのである。

こうして、全ては現在(いま)の今においてのみ存在しているのである。



父の遺影は、以上のように過去の父の根拠ではない。

過去の父が遺影の根拠なのである。

しかし、過去の父は今となっては消滅した。

父の遺影の根拠は今在る父の実在なのである。

現在(いま)在る父の実在。

それは、骨の一部は墓地内に、

火葬の時に、散り散りに変わったかつて父の体を構成していた粒子のなれの果て、

私が受精卵だったときの精子はかつての父の一部でもある。

そういう意味でも、変わり果てた姿に変形し、意識も無いが、

現在(いま)も実在する。

それが父の遺影の根拠だ。

全ては現在(いま)の今に在るのである。

現在(いま)も遺影の根拠、実在する死せり父は、

大地と空の一部、

地球の一部、

宇宙の一部になって在り続ける。

そして、大地と空の一部、

地球の一部、

宇宙の一部である私を見守り続けてくれる。

常に現在(いま)の今のみにおいて。




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