哲学


philosophy

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作成日 2003/1/3

「自然および社会、人間の思考、その知識獲得の過程にかんする一般的法則を研究する科学であり、したがって全体としての世界についての見解をしめす世界観である。また論理学および認識論をそのうちにふくんでいる。哲学は社会的意識の一形態であり、したがって、究極的には社会の経済的構造、生産関係から規定されている。そのかぎりで、それは社会に生活する人びとの社会的地位(階級ないし階層)からの表明としてあらわれる。この点で社会的地位が異なるのにしたがって、哲学的見解にも相違を生じ、対立した哲学説が生じ、哲学における党派的性格も生じてくる。 世界観としては、かつて神話的また宗教的世界観も存在したし、現に存在してもいるが、哲学の世界観がこれらと区別されるのは理論的に基礎づけられた世界観だということである。哲学はそのときどきの社会の経済的構造から規定されているが、また一定の相対的独立性をもっており、前時代からの思想をうけつぎ、これを発展させながらみずからの学説をつくりあげ、人びとの生活に働きかける。

ギリシア語でフィロソフィア(philosophia)の語は、ピュタゴラス(→ピュタゴラス派)によって用いられたといわれるが、これはphilo=愛とsophia=知からなり、知的探究を一般的にいいあらわしている(ちなみに、日本で<哲学>の訳語をつくり、今日広く使用されている端緒は、明治初年の西周からはじまる。日本には仏教の被覆のもとで、また儒教のかたちをとって<哲学>にあたる思想形態が存在していたが、哲学の語は、ヨーロッパの哲学の流入を機縁としてあらわれることとなった)。愛知として用いられた哲学には、古代では、その語に発達・分化した諸科学が包括されていた。 人知の発展をたどるうちに諸科学はしだいに独立したものとなり、したがってまた、哲学も一個独立の、諸科学と分かたれた科学になった。こうして、どの科学にとっても必要な思考の合理的な使用の方法、思考と存在との関係を明らかにする問題、これにつれて哲学の根本問題とされる意識と存在、思考と物質とのどちらが根源的かという問題に答える必要が生じてき、これらが哲学の固有な課題とされるようになった。ここから、唯物論と観念論との両極的対立が明確にされ、両者のあいだのたたかいは哲学思想の有力な推進力をなしてきた。 そして両者の歴史的経過からみて、唯物論は諸科学・技術・実際生活とつねにむすびつき、観念論は宗教とのむすびつきが濃厚であって、そこから一般的にいって唯物論は進歩的社会勢力の利害、その欲求を代表し、観念論は特定の時代的条件のもとでは進歩的役割を果たしたが、そのおもな傾向は社会の発展に背をむける社会的勢力に役だってきた。

マルクス主義哲学は、社会的には労働者階級の立場にたつ哲学としてあらわれた。従来の哲学は、科学的知識の発達の不十分だったところから、その認識で欠けている知識をみずから引きうけ、くふうしておぎないながら、世界全体の包括的な見解を提供することで(自然哲学・歴史哲学をつくりあげて)、<諸科学の科学>という地位をしめ、これはヘーゲルの哲学体系で頂点にたっすることになった。しかし、諸科学の発展はこのような<諸科学の科学>を必要としなくなり、この新たな段階でマルクス主義哲学によって、特殊科学として諸科学とならび、それ自身の課題を明らかにした哲学が確立されるにいたった。 これは、哲学を真に科学としなりたたせた革命的な事業である。それとともに、マルクス主義哲学はその任務を<世界を解釈する>ことではなく<これを変革する>ところに見いだした。この実践的性格もまた、この哲学がもつ根本的な特徴である。このようにして、新たな哲学は、一方では諸科学の探究にとって方法論的基礎を提供すると同時に、他方では社会的・政治的活動にとっても事態を唯物論的・弁証法的にとらえて活動の方策をうちたてる拠りどころになった。それはまた、人びとに道徳的・教育的な機能をもって、社会生活でのそのふるまいと考えとを確立するための基礎をあたえる。このマルクス主義哲学は、弁証法的および史的唯物論を有機的に結合しているところに、このような役割をあますことなく果たすことができるものになっている。

今日、ここにみてきたような哲学の課題と役割とを否定して、これらはすべて<ニセ問題>としてかたづける分析哲学のような主張がだされているが、これはむしろ哲学の積極的機能を放棄した退廃というほかはない。」

哲学辞典 森 宏一編集 青木書店 より




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