唯物論的時間Ⅰ


1992年12月作成の時間論

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作成日 2000/8/17の時間論「唯物論的時間Ⅰ」

作成日 2015/3/2

本題に入る前に、まず、「時間」には概ね二通りあると思います。一つは、 観念論的時間(主観的時間)、もう一つは、唯物論的時間(客観的時間)です。物理学における「時間」とは、 後者であり、前者ではありません。

前者を唯物論的立場で言い表しますと、こういう事ではないでしょうか。

「時間」とは、認識による「情報量の増加」における「秩序と方向性」である。認識に よる「情報量の増加」は、決して無秩序に広がっていくものでもなく、一定のスペースに おいて密度が高くなっていくものでもない。「順序」という「秩序」があり、「流れ」と いう「方向性」がある。この「秩序と方向性」こそが、観念論的時間(主観的時間)の正体である。

さて、それでは、後者の唯物論的時間(客観的時間)は、というと、これは、「運動」とセットに なっています。「運動」を考える上でなくてはならないものが唯物論的時間(客観的時間)です。 したがって、唯物論的立場にいる限り、前者がいくら正しくても後者を脅かすものでは ないというのは明白であります。なぜなら、唯物論的立場においては、「秩序と方向性」 のある「認識による情報量の増加」も、「運動」にすぎないからです。

どうやら、唯物論の立場に立つ限り、「時間」に対する考察は、取り敢えず「唯物論的時間(客観的時間)」の方に的を絞るべきであると思わ
れます。



まず、「運動」とは、あくまでも「存在」のとらえ方であって、「存在」そのものでは ありません。我々は、「運動」として「存在」を把握しているのであって、「運動」は 「存在」自体ではない訳です。それでは、「運動」は、はたして「存在」をありのままに とらえているでしょうか? 私は、とらえていないと思います。 その理由として、第一に、「運動」という「とらえ方」における「存在」の基本的状態が 「静止」であるのに対して、実際の「存在」の基本的状態は「動いている」状態であり、 絶対的「静止」状態など無く「静止」は常に相対的である事があげられます。



「運動」においては、「存在」が「動く」と解釈していますが、実は、そうではな く、「存在する」事と「動く」事は、同じ事なのではないでしょうか。つまり、 「存在する」という事は、「動く」という事であり、「動く」という事は、「存在する」 という事であります。「存在」しなければ、「動き」ようがないし、「動き」ようがない という事は、「存在」していないといえるのではないでしょうか。



さて、ここで「時間」について触れたいと思います。いうまでもなく、「時間」は 「運動」とセットになっています。「時間」は「運動」とは不可分のものであり、 「運動」という「存在のとらえ方」の中に組み込まれています。なぜそうなのかと いうと、前にも述べましたが、「運動」においては、「存在」が「動く」と解釈する からです。「存在」が「動く」と、とらえる事によって「時間」が必要になってくる。 いいかえれば、「時間」は「運動」におけるその「とらえ方」が生んだものといって良い と思います。しかし、「存在」をありのままにとらえますと、「存在する事」と 「動く事」は同じ事ですから、「時間」が外在する必要がなくなる訳です。もし、 「存在する事」と「動く事」が同じ事ではないとしても、「動く事」は「存在する事」 に含まれているのは明白でありますから、「時間」が外在する必要はない訳です。 「運動」とは実は客観的根源的現象ではなく、動いている「存在」のとらえ方であり、なんと、驚くべきことに脳内における主観的作業なのであります。 当然、「時間」も「運動」とセットになっているわけですから、主観的概念に過ぎないということになります。唯物論的時間(客観的時間)も 外在するものではなくて主観内にある訳なのです。つまり、「時間」は外在しておらず、また外在する必要もない訳です。





補足


「存在」が「動く」とは?


私のいう「動く」とは、根本的には「位置が変わる」という意味ではなく、「絶対静止の状態では ない」という意味です。


二つの離れた位置としての点、位置A、と位置Bが、あるとします。位置Aと位置Bの間に は、無限個の位置があります。さらに、位置Aと位置Bの間の距離が無限小であるとします。 それでも、なお、位置Aと位置Bの間には、無限個の位置があります。 位置が「長さ」を有している限り、その位置は、無限個の位置を有することになります。よっ て、位置が、一個の位置であるためには、「長さ」を有してはならないことにないます。 このことは何を意味しているか。つまり、点としての位置も、主観外に量を持たないと いうことを意味しています。

点としての位置も、主観外に量を持たない訳であるから、当然、体積、面積、長さ、を持 ちません。点としての位置が、隣接しないで無限個並んでも、線にならないのは明白であります。点は量を もたない。つまり、体積、面積、長さ、を持たないものであるから、点が無限個隣接して並んで も、点のままである。点が無限個隣接して並んだものを、同一の点ととらえるのは錯覚ではありません。 実際、無限個隣接して並んだ点と一つの点は等しくなります。

つまり、位置Aと位置Bの間に距離が無くても、その間に、無限個の位置がある。という ことと、位置Aと位置Bは、同じ位置である。ということは、等しいのです。これは、 点としての位置が、主観外に量を持たないことによります。位置というのは主観的なのです。

それでは、「絶対静止の状態」とは、どういうものかというと、「存在」の全てが完璧に静止 しているという現実にはあり得ない想像上の状態です。



「存在が動く」という解釈の根底には、「存在」の基本的状態が「静止」であると いう思いがあるのではないでしょうか。しかし、実際には、「静止」は常に動いている「相対的静止」であって「絶対静止」の状態はあり えない訳ですから、「存在」の基本的状態は「動いている」状態であるとする認識転換が 必要であると思われます。その認識転換によって、「動く事」は「存在する事」に 含まれると解釈すれば、「運動」とセットになっている「唯物論的時間」、つまり、「客観的時間」は不必要になります。 「存在が動く」と解釈した場合、「動く事」は「存在」とは別の事になりますから、 「存在」ではない「何か(動いている存在の連続体)」と、それが収まる器、つまり、客観的時間が必要になってくる訳です。
「存在」の基本的状態は「動いている状態」であり、動いていることを内包していると解釈した場合、「存在」のみ存在し、「存在でないもの」は存在しないとしますと、 「動いていること」は「存在」に含まれますから、それが成り立ち、客観的時間は、明らか に不要なものになる訳です。




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