唯物論的時間Ⅱ


1993年12月作成の時間論

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作成日 2000/8/18

目次

第1章 「唯物論的時間Ⅰ」の概要

第2章 過去
2.1 実在論における「現象」と「過去の根拠」
2.2 実在論における「認識及び記憶」と「過去の根拠」

第3章 実在論から唯物論へ
3.1 「力」
3.2 「空間」
3.3 「物質」と「力」、「空間」と「力」

第4章 位置

第5章 現在と時刻(時点)

第6章 時計

第7章 観念論のみ成り立つ実在論

第8章 まとめ






第1章 「唯物論的時間Ⅰ」の概要



まず、「唯物論的時間Ⅰ」の概要を述べる。

「存在」を、ありのままにとらえても、「運動」としてとらえても、とらえているの
は、主観であって、「存在」自体ではない。あくまでも、「存在」をとらえている主観
は、「存在」とは別のものである。主観無しに、「存在」をとらえるということは、あり
えない。「存在」をありのままにとらえるには、とらえているのは主観であるということ
を自覚する以外にない。「存在」を純粋に客観的にとらえることは、不可能である。

現在における「存在」の状態と現在の時刻(時点)における「存在」の状態は、異な
る。現在における「存在」の状態は、「動いている状態」つまり「絶対静止ではない状
態」であるが、現在の時刻における「存在」の状態は、「絶対静止の状態」である。現在
における「存在」の状態、つまり、「動いている状態」、「絶対静止ではない状態」
が、「存在」本来の基本的状態であるとすれば、時間は不必要となる。なぜなら、「存
在」が存在していれば、それは「動いている」のである。「存在」は、時間の経過ととも
に、あるいは、時間が経過することによって、「動く」のではなく、「存在」それ自体に
よって「動く」のである。つまり、「動く」ということは「存在」に含まれている。一
方、「存在」を時刻でとらえると、「存在」の状態は「絶対静止の状態」である。「存
在」が「動く」ためには、次の時刻へ進まなければならない。つまり、時間が経過すると
ともに、あるいは、時間が経過することによって、「動く」状態が生ずる。「運動」にお
いては、「存在」を時刻でとらえる。「存在」が「動く」ととらえる。つまり、時間の経
過とともに、あるいは、時間が経過することによって、「存在」が「動く」ととらえる。
したがって、「運動」においては、時間が必要となる。このように、とらえ方のよって、
不必要になったり、必要になったりするということは、時間は客観的実在ではなく、主観
的なものであるといえる。しかも、現在における「存在」をありのままにとらえ、「存
在」本来の基本的状態は「動いている状態」であるとすると、時間は不必要になる。しか
し、時間が必要となる「運動」においては、「存在」を時刻でとらえるが、時刻で、厳密
に、現在における「存在」をありのままにとらえることは不可能である。よって、「運
動」は、現在における「存在」をありのままにとらえることより主観的である。

「存在」をありのままにとらえた場合、現在における「存在」の状態が「絶対静止」の
状態でない限り、「存在する」と「動く」は、全く同じ意味である。

仮に、「現在」を、「ある直線上を一方向に動いている点」とすると、「時刻」は、
「その直線上に静止している点」である。この両者は、決して等しくはならない。「動い
ている点」が「静止している点」を通過する際も、この両者は等しくはない。「動いてい
る点」は、決して止まることはない。「動いている点」が「静止している点」を通過する
ことは、「動いている点」と「静止している点」の状態が同じであることにはならな
い。「動いている点」は常に「動いている」。「静止している点」は常に「静止してい
る」。つまり、両者は常に異なる状態にある。「動いている点」が「静止している点」を
通過する際も、両者は異なる状態にある。通過することは、同じ状態であることにはなら
ない。


この場合、「時刻」である「静止している点」は、直線上で「長さ」を持たないの
で、「時刻」である「静止している点」が直線上に隣接しないで無限個並んでも直線には
ならない。



二つの離れた位置としての点、位置A、と位置Bが、あるとする。位置Aと位置Bの間に
は、無限個の位置がある。さらに、位置Aと位置Bの間の距離が無限小であるとする。
それでも、なお、位置Aと位置Bの間には、無限個の位置がある。
位置が「長さ」を有している限り、その位置は、無限個の位置を有することになる。よっ
て、位置が、一個の位置であるためには、「長さ」を有してはならないことになる。
このことは何を意味しているか。つまり、点としての位置も、主観外に量を持たないと
いうことを意味している。

点としての位置も、主観外に量を持たない訳であるから、当然、体積、面積、長さ、を持
たない。点としての位置が、無限個並んでも、線にならないのは明白である。点は量を
もたない。つまり、体積、面積、長さ、を持たないものであるから、点が無限個隣接して並んで
も、点のままである。点が無限個隣接して並んだものを、同一の点ととらえるのは錯覚ではない。
実際、無限個隣接して並んだ点と一つの点は等しい。

つまり、位置Aと位置Bの間に距離が無くても、その間に、無限個の位置がある。という
ことと、位置Aと位置Bは、同じ位置である。ということは、等しいのである。これは、
点としての位置が、主観外に量を持たないことによる。


これらは、線としての位置にも当てはまることはいうまでもないが、面としての位置、面
による立体としての位置にも当てはまる。なぜなら、面としての位置における線は、長さ
を持つが、幅を持たないからである。面による立体としての位置における面は、広さを
持つが、厚さを持たないからである。したがって、面としての位置、面による立体として
の位置が無限個重なったものと、一つの、面としての位置、面による立体としての位置は
等しい。これは、面としての位置、面による立体としての位置が主観外に量を持たない
ことによる。

ここで、点、線、面、面による立体、というのは、全て概念であって、それら自体は量を
持たない。有なのに無、無なのに有。つまり、矛盾している。また、長さ、面積、体積、
というのは、全て、量の表し方であって、それら自体は量を持たない。ということを付け
加えておく。


要するに、位置とは、主観外に量を持たない。主観外に量を持たないということは、主観
外の「客観的実在」ではないということである。よって、位置は、主観内のものであり、
しかも、矛盾した概念なのだ。



以上が、「唯物論的時間Ⅰ」の概要である。今回の「唯物論的時間Ⅱ」に
おいては、唯物論の立場に立って、主に「過去」と、「位置」、「時刻(時点)」につい
て述べる。





第2章 過去



この章では、唯物論の立場で、実在論と観念論について述べるとともに、「過去」に言
及する。


2.1 実在論における「現象」と「過去の根拠」

観念論と実在論を両立させることができれば、認識論上の「認識の対象」に関する問題
の内の一つは、無くなる。そのためには、観念論を否定せず、観念論から脱却し、実在論
が成り立つようにしなければならない。

まず、現象を含めた主観を客観的実在とする。そして、その背後にある物自体を客観的実
在とする。

観念論を否定しないとすれば、物自体と主観とは、全く無関係ということになるから、物
自体と主観は、それぞれ、別々の客観的実在であるということになる。よって、物自体と
主観のみでは、実在論が成り立たなくなってしまう。なぜなら、観念論によれば、現象の
背後にある物自体は、認識することができないからである。物自体と主観のみでは、物自
体を、「物自体に関する現象」に対応させることができない。つまり、物自体と「物自体
に関する現象」が無関係ということになってしまう。そうすると、客観的実在は何らかの
仕方、程度において認識されうるとする実在論を否定してしまうことになる。

そこで、実在論を否定しないため、物自体と「物自体に関する現象」を対応させるに
は、「物自体に関する情報」があるとする。「物自体に関する情報」があるためには、必
ず物自体が無ければならない。なぜなら、物自体がなければ、「物自体に関する情報」は
生まれようがない。そして、「物自体に関する情報」は、物自体ではなく、主観でもな
い。としなければならない。「物自体に関する情報」が物自体でもあり、主観でもある。
とすると、観念論を否定することになってしまう。「物自体に関する情報」が、物自体で
あり、主観ではない。あるいは、物自体ではなく、主観である。とすると、実在論を否定
することになってしまう。さらに、実在論の立場上、「物自体に関する情報」は、客観的
実在であるとする。そして、「物自体に関する情報」が「物自体に関する現象」となる。
あるいは、「物自体に関する情報」が「物自体に関する現象」を生みだす。とすれば、物
自体は、認識の対象となりうる。

なぜなら、

「物自体に関する情報」が「物自体に関する現象」となる場合、物自体が無ければ、「物
自体に関する情報」は、ありえない。しかし、「物自体に関する情報」が無くても、物自
体はありうる。そうしないと、物自体が主観から独立していることにならない。つまり、
実在論を否定してしまう。したがって、物自体は「物自体に関する情報」の根拠になる
が、「物自体に関する情報」は物自体の根拠にはならない。さらに、「物自体に関する情
報」が無ければ、「物自体に関する現象」はありえないが、「物自体に関する現象」が無
くても、「物自体に関する情報」は、ありうる。そうしないと、「物自体に関する情報」
が主観から独立していることにならない。つまり、実在論を否定してしまう。よって、物
自体と「物自体に関する情報」と「物自体に関する現象」は関係がある。ここで、「物自
体に関する情報」について付け加えておく。「物自体に関する情報」の一部は、他の部分
の根拠にはならない。また、他の部分は、その一部の根拠にはならない。その一部が無く
ても、他の部分はありうるし、他の部分が無くても、その一部はありうる。これによっ
て、その一部と他の部分は無関係であるかというと、決してそうではない、関係はある。
なぜなら、その一部も、他の部分も、同じ「物自体」に関する情報だからである。

「物自体に関する情報」が「物自体に関する現象」を生みだす場合、「物自体に関する情
報」が無ければ、「物自体に関する現象」は、ありえない。しかし、「物自体に関する現
象」が無くても、「物自体に関する情報」は、ありうる。そうしないと、「物自体に関す
る情報」が主観から独立していることにならない。つまり、実在論を否定してしまう。し
たがって、「物自体に関する情報」は「物自体に関する現象」の根拠になるが、「物自体
に関する現象」は「物自体に関する情報」の根拠にはならない。よって、「物自体に関す
る情報」と「物自体に関する現象」は関係がある。この場合、物自体と「物自体に関する
現象」との関係は、どうかというと、物自体が無ければ、「物自体に関する現象」は、あ
りえない。しかし、「物自体に関する現象」が無くても、「物自体に関する情報」の有無
にかかわらず、物自体は、ありうる。そうしないと、物自体が主観から独立していること
にならない。つまり、実在論を否定してしまう。したがって、物自体は「物自体に関する
現象」の根拠になるが、「物自体に関する現象」は物自体の根拠にはならない。よって、
物自体と「物自体に関する現象」は関係がある。さらに、この場合、物自体と「物自体に
関する情報」との関係は、どうかというと、「物自体に関する情報」の有無にかかわら
ず、物自体は、ありうるが、物自体が無ければ、「物自体に関する情報」は、ありえな
い。そうしないと、物自体が主観から独立していることにならない。つまり、実在論を否
定してしまう。したがって、物自体は「物自体に関する情報」の根拠になるが、「物自体
に関する情報」は物自体の根拠にはならない。よって、物自体と「物自体に関する情報」
は関係がある。

要するに、この両者の場合、「物自体に関する現象」がある際、必ず、「物自体に関する
情報」と物自体がある訳であるが、「物自体に関する現象」があるから、「物自体に関す
る情報」があり、「物自体に関する情報」があるから、物自体があるのではなく、物自体
があるから、「物自体に関する情報」があり、「物自体に関する情報」があるから、「物
自体に関する現象」があるのである。

以上の事より、物自体と「物自体に関する情報」と「物自体に関する現象」は、関係があ
るからである。

したがって、「物自体」という客観的実在を根拠とする「物自体に関する情報」という客
観的実在は、「物自体に関する現象」の根拠になる。という、仕方あるいは程度によっ
て、物自体が認識の対象となりうる。そうすれば、実在論を否定せずに済む。



さて、これによって、観念論を否定することになるかというと、そうはならない。

なぜなら、

物自体と「物自体に関する情報」は、別々の客観的実在だからである。物自体と「物自体
に関する情報」は、別々の客観的実在でなければならない。物自体でもあり、「物自体に
関する情報」でもある。ということはありえない。物自体であれば、それは「物自体に関
する情報」たる資格を失う。「物自体に関する情報」であれば、それは物自体たる資格を
失う。「情報」には、次の二つの性質がある。一つは、情報は、それ自体に関する情報に
はなりえないということ。もう一つは、情報の対象になるものは、その情報自体を含まな
いということである。これによると、物自体が情報であるためには、その対象が「その物
自体」以外のものでなければならないことになる。したがって、物自体が「物自体に関す
る情報」になることはできない。また、「物自体に関する情報」が物自体であるために
は、それが情報の対象となっている「物自体」の一部でなければならないことになる。
情報の対象になるということは、その情報ではなくなる。つまり、「物自体に関する情
報」ではなくなる。したがって、「物自体に関する情報」が物自体でもあるということは
ありえない。さらに、物自体と「物自体に関する情報」を包括的にとらえ、「大きな物自
体」とした場合はどうかというと、「大きな物自体」の一部が「大きな物自体に関する情
報」になるとすると、「大きな物自体に関する情報」の対象となる「大きな物自体」に
は、「情報になっている大きな物自体の一部」は含まれない。

以上の事より、「物自体」と「物自体に関する情報」は別々の客観的実在である。

したがって、認識の対象たる「物自体に関する現象」になる「物自体に関する情報」、あ
るいは、認識の対象たる「物自体に関する現象」を生みだす「物自体に関する情報」
は、「物自体」ではない。つまり、「物自体」は認識しえない。また、「物自体に関する
情報」が「大きな物自体」の一部であり、「物自体に関する情報」ではない。としてしま
うと、「物自体に関する情報」がないということであるから、「物自体」は情報の対象で
はなくなる。つまり、「大きな物自体」の一部が認識の対象になるが、「大きな物自体」
の中の「物自体」は認識の対象ではなくなる。つまり、「物自体」は認識しえない。とい
うことにおいて、観念論を否定せずに済む。


このように考えると、観念論と実在論は両立する。


これらは、

Aは、AとBとの関係の根拠になる。Bは、AとBとの関係の根拠になる。
AとBとの関係は、Aの根拠にならない。AとBとの関係は、Bの根拠にならない。A
は、Bの根拠にならない。Bは、Aの根拠にならない。なぜなら、AとBは、別々のもの
であるが、全くの無関係であるとは言い切れない、必ず何らかの関係があると考えられる
からである。

ということによる。





さて、観念論と実在論を両立させるには、

認識の対象となりうる「物自体」を客観的実在とする。
認識の対象となりうる「物自体に関する情報」を客観的実在とする。
「物自体に関する現象」を含めた主観を客観的実在とする。
これらは、それぞれ関係はあるが、それぞれ別々の客観的実在であるとする。

としなければならない理由は既に述べた。

実在論から逸脱しないためには、これらのみを客観的実在として認める。その際、ただ単
に、「客観的実在」では、どの「客観的実在」の、どの部分を指すのか明確ではないの
で、「客観的実在」のうちのどれかを「その客観的実在」と具体的に指定すべきである。
当然、ここでいう「客観的実在」とは、「全ての客観的実在」という意味ではなく、「認
識の対象となりうる客観的実在」か、あるいは、「客観的実在としての主観(現象を含
む、認識をする主観)」のことを指す。「全ての客観的実在」が、「全ての客観的実在に
関する現象」になる。あるいは、「全ての客観的実在に関する現象」を生みだす。という
ことはありえない。なぜなら、現象となっている、あるいは、現象を生みだしている客観
的実在以外にも客観的実在がなければならないし、また、客観的実在としての主観自体は
現象となりえないからである。そして、「その客観的実在」以外のものは、徹底的に疑う
べきである。

そのためには、

「その客観的実在」以外のものは、どんなものであるのかわからないのであるから、「そ
の客観的実在」は、それに、「その客観的実在」の「実在根拠」をあたえるべきではな
く、また、それの「実在根拠」になるべきではない。「その客観的実在」の「実在根拠」
は「その客観的実在」それ自体のみであり、さらに、「その客観的実在」それ自体を「実
在根拠」としているのは「その客観的実在」のみである。「客観的実在でないもの」に
は、「実在根拠」は無く、「客観的実在でないもの」は「実在根拠」になりえない。つま
り、「客観的実在」にのみ「実在根拠」があり、「実在根拠」になりうるのは「客観的実
在」のみである。

「実在根拠」=それ自体が実在する根拠。

としなければならない。


そうしないと、「客観的実在でないもの」が「客観的実在」になってしまう可能性と「客
観的実在」が「客観的実在でないもの」になってしまう可能性、さらに、「客観的実在で
ないもの」が「客観的実在」の「実在根拠」になってしまう可能性と「客観的実在」が
「客観的実在でないもの」の「実在根拠」になってしまう可能性がでてくるからである。
つまり、実在論から逸脱してしまう可能性がでてくるからである。


上の条件を満たすには、


「客観的実在」=「現在の客観的実在」=「現在の存在」=「存在」=「実在根拠」


としなければならない。


なぜなら、主観外の「過去の客観的実在」はそれに関する現象を生みださない。よって、
主観外の「過去の客観的実在」は認識の対象になりえない。また、過去の「客観的実在で
ある主観」は認識しようがない。よって、過去の「客観的実在である主観」は認識の対象
になりえない。認識の対象になりえないものは、「客観的実在」とすべきではない。認識
の対象になりえないものを、「客観的実在」としてしまうと、実在論から逸脱してしま
う。さらに、「物自体に関する情報」が「物自体に関する現象」になる場合、「物自体に
関する情報」は、「物自体」の根拠にならないのであるから、過去の「物自体」の根拠に
もならない。「物自体に関する情報」が「物自体に関する現象」を生みだす場合、「物自
体に関する現象」は、「物自体に関する情報」の根拠にならないのであるから、過去の
「物自体に関する情報」の根拠にもならない。「物自体に関する情報」は、「物自体」の
根拠にならないのであるから、過去の「物自体」の根拠にもならない。つまり、認識の対
象になりうるものは、常に、現在の「物自体」と、現在の「物自体に関する情報」であ
る。そして、「物自体に関する情報」というのは、常に、「現在の物自体」に関する情報
である。ということになる。これらは、観念論を否定する実在論にも当てはまる。当ては
まらないとすれば、主観外の「客観的実在」が主観から独立していないということにな
り、その実在論は、実在論から逸脱してしまう。


以上の事より、「過去の客観的実在」を「客観的実在」とすべきではない。これは、観念
論を否定する実在論においても、当てはまる。当てはまらないとすれば、
その実在論は、実在論から逸脱してしまう。




2.2 実在論における「認識及び記憶」と「過去の根拠」

観念論と実在論が両立する実在論における、認識の対象となる「物自体と物自体に関す
る現象との関係」については、既に述べた。ここでは、「物自体」と「物自体に関する現
象が認識されることによって生みだされる認識、記憶」、つまり、認識作用の結果として
の「物自体に関する認識、記憶」との関係について述べる。

「物自体に関する情報」が、そのまま、認識作用によって、「物自体に関する現象」か
ら、「物自体に関する認識、記憶」になる、あるいは、その一部になる場合、「物自体」
は「物自体に関する認識、記憶」の根拠になるが、「物自体に関する認識、記憶」は「物
自体」の根拠にはならない。よって、「物自体に関する認識、記憶」は、過去の「物自
体」の根拠にもならない。また、「物自体に関する認識、記憶」は、「物自体に関する認
識、記憶」である、あるいは、その一部である「物自体に関する情報」以外の「物自体に
関する情報(もちろん、主観外のものも含む)」の根拠にはならない。よって、「物自体
に関する認識、記憶」は、過去の、今述べた「物自体に関する情報」の根拠にもならない。

「物自体に関する情報」が、「物自体に関する現象」を生みだし、「物自体に関する現
象」が、そのまま、認識作用によって、「物自体に関する認識、記憶」になる、あるい
は、その一部になる場合と、「物自体に関する情報」が「物自体に関する現象」を生みだ
し、「物自体に関する現象」が認識作用によって、「物自体に関する認識、記憶」を生み
だす場合、「物自体」と「物自体に関する情報」は「物自体に関する認識、記憶」の根拠
になるが、「物自体に関する認識、記憶」は「物自体」と「物自体に関する情報」の根拠
にはならない。よって、「物自体に関する認識、記憶」は、過去の、「物自体」と「物自
体に関する情報」の根拠にもならない。

観念論を否定する実在論においても、

「物自体に関する認識、記憶」は「物自体に関する現象」の根拠になる。
そして、さらに、
「物自体に関する現象」は「物自体に関する情報」、あるいは、「物自体」の根拠になる。
か、または、
「物自体に関する現象」は「物自体に関する情報」の根拠になり、「物自体に関する情
報」も「物自体」の根拠になる。

つまり、「物自体に関する認識、記憶」は、「主観外にある客観的実在」の根拠になる。
よって、
「物自体に関する認識、記憶」は、過去の「主観外にある客観的実在」の根拠にもなる。

とすることは、できない。

なぜなら、そうであるとしたら、「主観外の客観的実在」は、主観から独立していること
にならない。主観外に「主観から独立している客観的実在」を認めるのが、実在論である
ので、そうであるとしたら、実在論ではなくなってしまう。

つまり、観念論を否定する実在論においても、「物自体に関する認識、記憶」は、「主観
外にある客観的実在」の根拠にはなりえないし、当然、過去の「主観外にある客観的実
在」の根拠にもなりえない。





以上の事より、「物自体に関する認識、記憶」は、過去の「主観外にある客観的実在」の
根拠にはなりえない。





ここで、「物自体」と「物自体に関する情報」を包括的にとらえた「大きな物自体」の
「物自体」を除く一部が、認識作用の結果としての「認識、記憶」になる、あるいは、
その一部になる場合と、単に、「物自体」の一部が、認識作用の結果としての「認識、記
憶」になる、あるいは、その一部になる場合について述べておく。

この両者の場合、「大きな物自体」の「物自体」を除く一部、あるいは、「物自体」の一
部は、他の部分と関係があるが、他の部分の根拠にはならない。したがって、「認識か記
憶」である、あるいは、その一部である「大きな物自体」の「物自体」を除く一部、ある
いは、「物自体」の一部は、それ以外のものの、何の根拠にもならない。ということはい
うまでもない。さらに、この両者の場合、「大きな物自体」の「物自体」を除く一部、あ
るいは、「物自体」の一部は、「認識、記憶」、あるいは、その一部になることによっ
て、認識の対象ではなくなってしまう。このことは、「認識の対象となっているもの」自
体が、「認識、記憶」となるのは不可能である。ということを意味している。

この両者の場合においても、観念論と実在論が両立する。なぜなら、「認識の対象となっ
ているもの」自体は、認識作用の結果である「認識、記憶」にはなりえない。ということ
において、観念論を否定せずに済む。また、「物自体」の一部が、認識作用の結果であ
る「認識、記憶」になってしまう。ということにおいて、実在論を否定せずに済む。



さて、「物自体に関する現象」が、認識作用によって、そのまま、あるいは、その一部
が、「物自体に関する認識、記憶」になる。あるいは、その一部になる。としたが、こ
の「物自体に関する認識、記憶」は、「現象を含めた主観」の内側、つまり、主観の中に
あるもので、現象の外側、つまり、主観外にある「物自体に関する情報」とは、別々の
ものであるとして、明確に区別すべきである。仮に、「物自体に関する情報」が、あるい
は、その一部(といっても、それもまた「物自体に関する情報」であるが、)が、現象を
通過して、そのまま、「物自体に関する認識、記憶」になる、あるいは、その一部になる
場合も、現象を通過してしまえば、あくまでも、それは、主観内の「物自体に関する認識
と記憶」、あるいは、その一部であって、主観外の「物自体に関する情報」ではなくな
る。したがって、この場合も、主観外にある「物自体に関する情報」と、主観内にある
「物自体に関する認識、記憶」とは、別々のものであるとして、明確に区別すべきであ
る。なぜなら、観念論と実在論が両立する実在論においては、

認識の対象になりうる、主観外の「物自体」と「物自体に関する情報」を「客観的実在」
とする。さらに、現象を含む「認識をする主観」を「客観的実在」とする。

ので、主観内の「物自体に関する認識、記憶」が、主観外の「物自体に関する情報」でも
ある。とすると、主観外の客観的実在が、主観内にもある。ということにおいて、観念論
を否定してしまう。さらに、主観外の客観的実在が主観から独立していない。ということ
において、実在論を否定してしまう。つまり、観念論も実在論も成り立たなくなってしま
うからである。

以上の事より、主観内にある「物自体に関する認識、記憶」は、主観の一部でしかない。
ということになる。

よって、主観外にある、その「物自体」の「実在根拠」は、それ自体である。主観外にあ
る、その「物自体に関する情報」の「実在根拠」は、それ自体である。ということは、
もちろん、
主観内にある、その「物自体に関する認識、記憶」は、主観の一部、つまり、「主観とい
う客観的実在」の一部であるから、その「実在根拠」は、それ自体である。か、そうでな
かったら、それを成り立たせている「主観という客観的実在」のうちの一部である。それ
以外のものは、その「実在根拠」にはならない。



それでは、「過去の客観的実在」を「客観的実在」たらしめるには、どうすればよいか
というと、「過去の客観的実在」は、主観外ではなく、主観内にある。とする以外にな
い。「過去の客観的実在」が主観内にあるとすれば、「客観的実在」たりうる。なぜな
ら、主観の一部であれば、「客観的実在」であるからである。それでは、主観内にある
「過去の客観的実在」とは、何かというと、それは「過去の客観的実在」という概念で
ある。つまり、「あった」あるいは「存在していた」という言葉のもとになっている概念
が、現象を認識することのみによって得られる記憶に、付与されている、または、結びつ
いている。あるいは、その概念をその記憶に、付与することができる、または、結びつけ
ることができる。これらの概念は、現象を認識することのみによって得られる記憶と結び
ついている、あるいは、結びつけることができるが、現象を認識することのみによって得
られる記憶自体ではない。





第3章 実在論から唯物論へ



さて、唯物論の立場での実在論から唯物論に進むには、

客観的実在=物質、力、空間。

とすべきである。と考える。


3.1 「力」

物理学に関しては、私は、全くの素人なので、現在の物理学が「力」をどうとらえてい
るのか、よく知らない。しかし、時間が客観的実在ではない。と主張する以上、時間の概
念が組み込まれている「力」について、誤っているかもしれないが、述べる。

1N(ニュートン)は、1kgの物体に作用して、1m/s2 の加速度を生じさせる力で
ある。と定義されている。

これを時間の概念を使わないで済むように、力積の公式 △P=F△t より、
1N×1秒=1P として、1Pを力の単位としてしまう。

そうすると、1秒間という時間間隔は、1kgの物体と、1Pと、1mという距離で表さ
れる。そして、1m/s2 という加速度は、1kgの物体が、1Pによって、1m進む毎
に、1kgの物体において、Pの量が1Pずつ増加していくと表される。

よって、仮に、時間の概念を使わない力の量Pそのものが、正確に測定できるとすれば、
物体と、力(Pの量)と、距離、で時間間隔を表すことができ、また、加速度をも表せる
のではないだろうか。




3.2 「空間」

次に、空間について述べる。

「物自体に関する情報の無い現象」は、空間によるものである。とすればよいのではない
だろうか。「物自体に関する情報の無い現象」は、現象が無いということではない。客観
的実在が、現象の根拠になるとすれば、「物自体に関する情報の無い現象」があるという
ことは、その根拠になる客観的実在があるとすべきである。その客観的実在を「物自体に
関する情報のないもの」とする。以下、「物自体に関する情報の無い現象」を「情報の無
い現象」、「物自体に関する情報の無いもの」を「情報の無いもの」と書く。「情報の無
いもの」を客観的実在とすると、「情報の無いもの」が、無ければ、「情報の無い現象」
は、ありえない。したがって、「情報の無いもの」は、「情報の無い現象」の根拠になり
うる。しかし、「情報の無い現象」が、無くても、「情報の無いもの」は、ありうる。
そうしないと、「情報の無いもの」は、主観から独立していることにならない。したがっ
て、「情報の無い現象」は、「情報の無いもの」の根拠にはなりえない。これは、観念論
を否定する実在論においても成り立つ。さらに、「情報の無いもの」は、主観外にあっ
て、「情報の無い現象」は、主観内にある。「情報の無いもの」と「情報の無い現象」
は、関係はあるが、「情報の無い現象」は、「情報の無いもの」自体ではない。よって、
ここにおいても、観念論と実在論が両立する。この場合、「物自体に関する情報の無い
現象」は、認識の対象になるので、「物自体に関する情報の無いもの」も認識の対象に
なりうる。

以上の事より、

「物自体に関する情報の無いもの」=空間=客観的実在。

とできる。




3.3 「物質」と「力」、「空間」と「力」

これから述べることは、私の推測にすぎない。物質も、空間も、「力」の一形態なの
ではないだろうか。「力」には、二種類あり、一つは、外に向く力、もう一つは、
内に向く力、と考える。



図Ⅰ 参照 省略(図Ⅰに基づいたものが、宇宙論「宇宙の構造について」である。)





第4章 位置



従来、位置は「過去の客観的実在」の根拠とされてきた。しかし、位置が、「物自体に
関する認識、記憶」に、含まれているものであるか、あるいは、主観的作業によって、付
与されるものであることは、明白である。したがって、位置は、主観外の「過去の客観的
実在」の根拠になりえないのである。

ここで、位置について、詳しく述べてみよう。

まず、位置それ自体は、主観外に量を持たない。それは、明白である。具体的なものとし
て、点としての位置を考えてみる。

二つの離れた位置としての点、位置A、と位置Bが、あるとする。位置Aと位置Bの間に
は、無限個の位置がある。さらに、位置Aと位置Bの間の距離が無限小であるとする。
それでも、なお、位置Aと位置Bの間には、無限個の位置がある。
位置が「長さ」を有している限り、その位置は、無限個の位置を有することになる。よっ
て、位置が、一個の位置であるためには、「長さ」を有してはならないことになる。
このことは何を意味しているか。つまり、点としての位置も、主観外に量を持たないと
いうことを意味している。

点としての位置も、主観外に量を持たない訳であるから、当然、体積、面積、長さ、を持
たない。点としての位置が、無限個並んでも、線にならないのは明白である。点は量を
もたない。つまり、体積、面積、長さ、を持たないものであるから、点が無限個隣接して並んで
も、点のままである。点が無限個隣接して並んだものを、同一の点ととらえるのは錯覚ではない。
実際、無限個隣接して並んだ点と一つの点は等しい。

つまり、位置Aと位置Bの間に距離が無くても、その間に、無限個の位置がある。という
ことと、位置Aと位置Bは、同じ位置である。ということは、等しいのである。これは、
点としての位置が、主観外に量を持たないことによる。


これらは、線としての位置にも当てはまることはいうまでもないが、面としての位置、面
による立体としての位置にも当てはまる。なぜなら、面としての位置における線は、長さ
を持つが、幅を持たないからである。面による立体としての位置における面は、広さを
持つが、厚さを持たないからである。したがって、面としての位置、面による立体として
の位置が無限個重なったものと、一つの、面としての位置、面による立体としての位置は
等しい。これは、面としての位置、面による立体としての位置が主観外に量を持たない
ことによる。

ここで、点、線、面、面による立体、というのは、全て概念であって、それら自体は量を
持たない。また、長さ、面積、体積、というのは、全て、量の表し方であって、それら
自体は量を持たない。ということを付け加えておく。


要するに、位置とは、主観外に量を持たない。主観外に量を持たないということは、主観
外の「客観的実在」ではないということである。よって、位置は、主観内のものである。


以上の事より、これはもう当然であるが、点としての位置は、「長さ」を持たない。した
がって、点としての位置が隣接せずに無限個並んでも直線にはならない。ということは、
言うまでもない。





第5章 現在と時刻(時点)



既に、唯物論の立場に立つと、観念論と実在論が両立する実在論においては、
あるいは、観念論を否定する実在論においても、

「客観的実在」=「現在の客観的実在」=「現在の存在」=「存在」


とすべきである。ということは述べた。

「存在」とは、現在の「存在」ということであるので、常に「動いている」訳である。
「動く」を、どう定義するかというと、「絶対静止ではない」と定義する。現在の
「存在」の状態は、当然、「絶対静止ではない」。つまり、現在の「存在」の基本的状態
は、「動いている」状態なのである。この、現在の「存在」、つまり、「存在」を、
時刻(時点)でとらえようとすると、当然、現在の「存在」、つまり、「存在」との間
に「ずれ」が生じる。なぜなら、時刻でとらえようとする。ということは、「絶対静止」
でとらえようとする。ということと同じである。しかし、現在の「存在」、つまり、
「存在」の基本的状態は「絶対静止」の状態ではない、つまり、「動いている」状態で
あるからである。

「運動」においては、時刻で「存在」をとらえようとする。つまり、「運動」において
は、「存在」の基本的状態が「絶対静止」なのである。しかし、現在の「存在」、
つまり、「存在」の基本的状態は「動いている」状態であって、「絶対静止」ではない。
この「違い」が「過去」を生みだす「もと」になっている。

それでは、現在の「存在」、つまり、「存在」を、そのまま、現在の「存在」、
つまり、「存在」として、「現在」でとらえるにはどうすればよいのかというと、
「存在」を「動いている」状態でとらえなければならない。「存在」を「動いている」
状態でとらえるということは、時刻でとらえてはいけないということである。そのため
には、どうすればよいのかを述べる。

「現在の物自体」は、認識の対象となるが、「現在の物自体」を、そのまま、厳密に
「現在」でとらえることはできない。しかし、「現在の物自体」のごく近いところで、
常に、「現在の物自体」による「物自体に関する、最も新しい認識」だけに、主観内の
「存在という概念」を対応させれば、「現在の物自体」を、ほぼ「現在」でとらえられ
る。この場合、完全な「現在」でないにしても、少なくとも「動いている」状態でとらえ
られることは間違いない。ということにおいて、ほぼ、「現在」でとらえられる。と
言っても過言ではない。

「存在」を時刻でとらえるということは、

「物自体に関する認識と記憶」の全てに、主観内の「存在という概念」を対応させ、最も
新しい認識に対応する主観内の「存在という概念」だけを「現在の時刻の存在」とし、
その他の、主観内の「存在という概念」を「過去の時刻の存在」とする。
あるいは、
ある特定の「物自体に関する情報」による「物自体に関する記憶」に、主観内の
「存在という概念」を対応させ、その概念を「過去の時刻の存在」とする。

ということである。





第6章 時計



時計とは、光をもとに、「物自体に関する情報」を、数字によってカウントする道具で
ある。

我々が「過去」であると勘違いしてしまいがちなものに、時計に基づく数字によるカウン
トの済んでいる「物自体に関する情報」と、物自体から、ごく近い距離にある、これから
時計に基づき数字によってカウントされるべき「物自体に関する情報」を除く、時計に基
づく数字によるカウントのされていない「物自体に関する情報」がある。この場合、時計
に基づき、同じ数字でカウントされている、あるいは、カウントすることができるが、
カウントされていない「物自体に関する情報」が、同じ時刻の「物自体に関する情報」と
いうことになる。しかし、「物自体に関する情報」は、あくまでも、現在の客観的実在で
あって、「過去」ではない。





第7章 観念論のみ成り立つ実在論



唯物論の立場で、観念論のみ成り立つ実在論について述べる。

「ある存在」と「他の存在」は、それぞれ別々のものであるが、決して無関係とはいえ
ない。むしろ、必ず何らかの関係があると考えられる。「ある存在」と「他の存在」は、
何らかの関係がある。と考える方が自然で、「ある存在」と「他の存在」は、全く無関係
である。と考えるのは不自然ではないだろうか。「ある存在」が、「他の存在」と全く
無関係で、それのみで完全に独立しているものとするのは、認識のなせる業ではないだろ
うか。
「ある存在」と「他の存在」は、全く無関係であるとすれば、主観外の客観的実在は
認識しえないという全くの観念論になってしまうが、それでもなお実在論の立場をとれ
ば、主観外の客観的実在と、主観は、全く無関係であるという実在論になる。その場合
も、「物自体に関する認識、記憶」は、物自体の根拠にはならない。したがって、「物
自体に関する認識、記憶」は、過去の物自体の根拠にもならない。という私の主張は成り
立つ。しかし、その場合、過去の客観的実在の根拠は、何も無いと同時に、現在の客観的
実在も、認識の対象になりえないので、 現在の客観的実在=客観的実在。 とすること
は可能ではあるが、断定はできない。

以上の事は、当然、実在論の一つである唯物論においても当てはまる。





第8章 まとめ



観念論的時間(主観的時間)とは、認識による情報量の増加における「秩序」と「方向
性」である。さらに具体的に言うと、観念論的時間とは、主観内の、現象を認識すること
のみによって得られる「認識と記憶そのもの」における「順序と順序を維持しつつ増加
していくという方向性」のことを指す。


唯物論的時間(客観的時間、外在する時間)とは、実は、主観外に客観的に実在するもの
ではなく、主観内にあるものである。さらに具体的に言うと、唯物論的時間とは、主観内
の、時計及びそれに準ずるものによって与えられる時刻(数字)と結びついている、現象
を認識することのみによって得られる「認識と記憶」そのものとそれらに対応している概念
的部分(位置、時刻における「存在」という概念、を含む。)における「順序と順序を維
持しつつ増加していくという方向性」のことを指す。そして、これらは、時計及びそれに
準ずるものによって与えられる時刻(数字)によって順序立てられる。さらに、主観内
の、時刻と結びついていない、現象を認識することのみによって得られる「認識と記憶」
そのものとそれらに対応している概念的部分(位置、時刻における「存在」という概念、を
含む。)における「順序と順序を維持しつつ増加していくという方向性」のことをも指
す。そして、これらは、時計及びそれに準ずるものによって与えられる時刻(数字)と
結びついている「認識と記憶」を含む「認識と記憶」そのものの順序によって順序立てら
れる。

また、現象を認識することのみによって得られる「認識と記憶」そのものとそれらに対応
している概念的部分、とそれらに基づいている概念を「推定による時刻(数字)」と結び
つける場合もある。そして、唯物論的時間とは、これらにおける「順序」のことをも指
す。この場合は、「推定による時刻(数字)」の順序によって順序立てられる。




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