在るものは在る
無から有、有から無
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作成日 2007/2/26
「在るものは在り、無いものは無い」、エレアのゼノンの師パルメニデスの言葉だ。彼は、この原理に従って論を進め、虚無の存在を前提とする生滅を否定し、在るものは唯一、不生不滅、不変不動で、しかもそれは球形であると主張した。
この原理はうなずける。私は、どうも、「無から有、有から無」というのは、うさんくさく感じる。不変不動でないにしても、不生不滅ではないかと思っている。
この世は、有か?無か?もちろん有であろう。
「感覚ありき、ゆえに有なり。感覚を認識す、ゆえにさらに有なり。あるものはある、ゆえに、意識がなくても有である。」
死は、消滅、無ではない。意識がなくなるだけだ。夢を見ない熟睡。あんな感じだろう。意識がなくなっても、遺体はある。土葬にしても火葬にしても、その個体を構成していた粒子は姿、形を変え、その人の死後も実在し続ける。つまり、徳川家康は、今も実在しているわけだ。生きていても死んでいても、宇宙の一部、有の一部に変わりがないのである。圧倒的な有の現実の前で、無は空想の産物となる。有は有のみ、無の入り込む余地はない。空間も有だ。無ではない。物質が収まっている器だ。
「無から有、有から無」は、もはやナンセンスとしかいいようがないであろう。
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